のら印BLOG

野良猫のように街を探索し、楽しさを発見するブログ

歴史と絡む老舗の木製看板・寺町通を三条から御池へ

今回は、京都市中京区の寺町通を、三条から北に向かって看板を訪ねます。

アーケードのある、寺町通専門店会商店街の入口。

三条通御池通の間にある、約200mほどの商店街です。

アーケード入口の右手には、矢田地蔵とよばれる矢田寺。

小さなお寺ですが、平安初期より続いています。

そのお隣は、「生そば常盤」。

上部の市松模様の壁に、切り文字看板で「善哉」とあるように、元々はぜんざい屋さんだったようです。

昭和の香りを感じる出で立ちですが、創業はさらに古く、1878(明治11)年とのこと。

蛍光灯が照らすショーケースには、年季の入ったサンプルが並びます。

商店街歩きを始めたばかりですが、風情に惹かれ、いそいそと入店。

店内でイワシフライ定食をいただきました。

かけ蕎麦もついたこのボリュームで、850円。

懐かしい丸美屋のたまごふりかけも付いていて、外観そのままに、時代の変化におもねることのない期待どおりのお店でした。

 

北隣は、春には竹の子、秋には松茸が店頭に並ぶ「とり市老舗」。

明治の初めに、青果店として創業したようです。

合わせ木の看板はもちろん、その下の硝子部分にも、たくさん商品が紹介されています。

店内にある、すぐきと千枚漬の木製看板。

こちらには、「日本一 味と香り とり市のじ山茸」とあります。

隣りには、「千枚漬工房」が、

向かいには、京野菜料理を食べさせる「旬彩香房」も併設されていました。

 

続いて、軒下に小さくある「大芳」の看板。

赤く丸まったロゴマークが、ちょっと懐かしい。

今は、企画会社のようですが、元々は何屋さんだったのでしょうか。

ステンレスの梁にある「Coffee Smart」の文字が楽しい、スマート珈琲店には今日も行列。

京都で2番目に古い喫茶店の創業は、1932(昭和7)年。

 

なんとも独特な外観の「其中堂(きちゅうどう)」。

1930(昭和5)年の建築です。

仏教書専門の古書店だからでしょうか、庇上の木組みデザインが、ちょっと中国風の寺院に来たかのようです。

その上には、一文字ずつ金色の花形の上に「其」、「中」、「堂」、と篆書体で書かれた珍しい看板。

篆刻家・園田湖城の字のようです。

 

少し北には、お香や書画用品を扱う「鳩居堂」。

1663(寛文3)年に、薬種商として創業しています。

鳩居堂という屋号の命名は、江戸中期の朱子学者・室鳩巣。

改装されていて、建物はとてもきれいです。

ただ看板は、1914(大正3)年に焼失した後に掲げられたもの。

お店のHPには、「確かな言い伝えによると、羅振玉(1866~1940)。また、山田古香(1852~1935)という説も。」とあります。

羅振玉は、甲骨文字の研究で有名な中国の学者。

辛亥革命後は、一時京都で暮らしていたようです。

山田古香は、江戸後期から活躍した書家。

いずれにしても、すっきりと美しい文字だと思います。

店内には、改装前まで屋根の上に置かれていた、双鳩の鬼瓦が展示されています。

お店の方には、快く撮影許可をいただきました。

この瓦には、「瓦師 甚兵衛 天保四年八月彫」と記されているようです。

鳩居堂」は、平家物語に出てくる熊谷直実の子孫が経営されるお店。

熊谷直実は、まだ少年であった平敦盛を泣く泣く討った後、法然のもとで出家した、あの人物ですね。

デザインされている「向かい鳩」は、熊谷家の家紋です。

ちなみに、7代目店主の熊谷直孝は、日本で最初の小学校である柳池小学校を官に頼らず設立したさいの、中心的な人物でした。

毛筆売り場には、幕末の尊王攘夷運動に影響を与えた思想家・頼山陽の揮ごうで、「筆研紙墨皆極精良」の書が掛かっていました。

頼山陽は、日本の書画用品の品質向上のため、親身になって鳩居堂に助言をしていたようです。

鳩居堂の歴史には、教科書中の人物たちが、ごく自然に絡み合っているようでした。

 

お向かいには、看板ではなく、元看板。

切り文字看板を剥がしても、「六時屋洋服店」は存在しているかのようです。

こちらは、そもそも看板さえない古書店、「佐々木竹苞書楼」。

古い町家の軒先に積み上げられた古書の山、また山。

店内には、和綴じ本も多く並べられています。

看板は無くても、店の風貌が放つ圧倒的な存在感。

看板って何だろうと、少し考えさせられました。

ちなみに創業は、1751(宝暦元)年です。

 

きんつばが名物の和菓店「小松屋」。

創業は、1912(大正元)年。

 

少し進むと、本能寺の変の時からは移動していますが、本能寺があります。

織田信長の廟所もあるお寺です。

ここを過ぎると、広い御池通

御池通が広い理由は、戦争中の強制疎開のため。

建物疎開とも言われ、空襲による火災の被害を少なくするため、この場所にあった建物は強制的にロープを掛けて引き倒されました。

寺町御池の角には、強制疎開によって取り壊されたお店が、その後復活しています。

アーケード出口の右側に見える、「亀屋良永」です。

1803(享和3)年創業の老舗和菓子店は、強制疎開による営業中断ののち、戦後の1952(昭和27)年にこの場所に戻られたようです。

掲げられている木製看板は、再建後のもの。

看板の文字は、達筆ではありませんが、とても柔らかく、優しい。

特に亀の文字が、可愛らしい。

「亀屋良永 実篤書」とあり、白樺派の小説家・武者小路実篤の書です。

国家の強制によって、営業を中断しなければならなかったお店にとって、この優しい文字は、とても良く馴染んでいるように思えました。

 

長い商店街ではありませんでしたが、今回も味わいのある看板に出会うことができました。

看板が無くても、在るかのように感じてしまうお店もありました。

看板を訪ね歩くのも、楽しいものです。

さて、次はどこを訪ねましょうか。

和菓子木型で縁どられた木製看板・京都姉小路通

趣のある看板を訪ねて、歩き始めています。

今回は、京都市三条通の一本北側の道である、姉小路通

京の通り名数え唄にある、「丸、竹、夷、二、押、御池、姉、三、六角・・」に出てくる「姉」ですね。

姉小路通は、東は高瀬川にかかる姉小路橋から始まります。

ちなみに通り名は、「あねこうじ」とも言われますが、「あねやこうじ」と呼ばれることが多いようです。

姉小路橋の北西角には、「従是西 徳川時代対馬宗氏屋敷跡 付 桂小五郎寓居跡」の碑が建っていました。

西へ歩き、河原町通を越えます。

最初に出会ったのが、変体仮名で「生楚者゛」と書かれた切り文字看板。

「きそば」のお店のようですが、明らかに営業してはいません。

「東京生楚者゛」、「東京天婦羅」と書かれた、薄い板の木製看板もあります。

軒先の行灯看板には、「福」の文字がデザインされていますが、今や店名も分かりません。

 

ここで、姉小路通は、寺町通に突き当たります。

個性的な仏教書専門店・其中堂の看板と店構えを見ながら、少し北に折れ、

お香と書画用品の鳩居堂の手前を、今度は西に折れます。

ここから西が、平安京姉小路になります。

 

少し歩くと、北側に「祭具 装束 株式会社 三上装束店」の縦型の木製看板。

1867(慶応3)年創業ということですから、大政奉還の年からのようです。

そのお向かいにあるのが、「総本家 河道屋」。

創業は、1688(元禄元)年。

京町家の屋根に、煉瓦積の煙突。

面白いですね。

厨子二階に掲げられた、「蕎麦ほうろ 河道屋老舗 天香題」の木製看板。

蕎麦で知られる河道屋ですが、こちらは蕎麦粉を原料に焼いた菓子・蕎麦ぼうろのお店です。

看板の文字には、かなりの勢いを感じます。

揮毫した「天香」とは、明治末期に一燈園を設立した西田天香

争いの無い生活を実践する修行の場であった一燈園には、哲学者の和辻哲郎や小説家の徳富蘆花倉田百三、自由律俳句の尾崎放哉ら、そうそうたる顔ぶれが通ったようです。

 

そのお隣は、日本画専門絵具の「彩雲堂」。

明治初期の創業です。

こちらも虫籠窓の前に、風情のある木製看板。

日本画専門の絵具店らしく、店名の部分は美しい白緑で書かれています。

「彩雲堂 為藤本氏 鐵齊」。

明治・大正期の文人画家、富岡鉄斎の書です。

鉄斎は、このお店から画材を購入していたようで、その関係で書いたのでしょう。

店主である藤本氏への、為書となっています。

鉄斎は、ただ屋号を書いたのではなく、「彩雲堂」の屋号そのものを藤本氏に贈っているようです。

店先には、こんな嬉しくなる看板もありました。

「営業時間 日の出より夜(まで)」。

良い感じです。

 

麩屋町姉小路を少し下がったところには、先ほどあった河道屋の生蕎麦のお店、「晦庵 河道屋」がありました。

こちらも江戸時代から続いています。

袖行灯看板に、漂う風情。

「そば 芳香爐」とあります。

芳香爐とは、このお店独自の蕎麦鍋のようでした。

 

麩屋町姉小路を少し上がると、京都に現存する最古の旅館「俵屋」。

創業は1704(宝永元)年。

現在の建物は、幕末の禁門の変により焼失した後、再建されたものです。

行灯看板の一つの面には、「俵の絵+屋」で俵屋とありました。

ちょっと楽しくなる看板です。

その向かいには、俵屋、炭屋と並んで京都御三家とよばれる老舗旅館「柊家」。

こちらの創業は、1818(文政元)年。

宿としては、2代目の頃から営業されているようです。

文豪・川端康成が京都の定宿としていたことでも知られています。

姉小路通からは、右に俵屋、左に柊家と、向かい合う二つの老舗旅館が見えました。

 

麩屋町姉小路の北西角には、「平野とうふ」。

1906(明治39)年の創業ですから、古いお豆腐屋さんです。

美食家・北大路魯山人も好んだお店とのこと。

木の壁に貼り付けられた、赤い丸に「平」のロゴが愛らしい。

これも切り文字看板なのでしょう。

 

続いて、お酒の泉屋市古商店。

通り庇の上には、面白い木製看板がありました。

中央には、「特約店 泉屋市古商店」とあり、左右に醸造会社のロゴマークが並びます。

右には、「盛田合資會社醸造 味噌溜」と「山泉」のロゴ。

左には、「坪田醤油株式會社醸造 醤油」と「丸ほ」のロゴ。

3つの名前が並び、賑やかな看板です。

ちなみに、盛田合資會社は、ソニー創業者である盛田昭夫氏の実家だそうです。

 

少し西へ歩いて東洞院通を越えると、広い烏丸通までもうすぐ。

その短い区間に、見事な木製看板が集中しています。

まずは、落ち着いた町家に掛かる、「柚味噌」の個性的な文字の看板。

書家であり、篆刻家であり、画家であり、陶芸家であり、料理家であり、美食家であって、『美味しんぼ』の海原雄山のモデルとされる北大路魯山人の書です。

お店は、1727(享保12)年創業の「八百三」。

表に掛かっている看板はレプリカで、実物は店内にありました。

こちらが実物。

魯山人は、自ら書き、彫っています。

落款には「大観」の文字が見えますので、魯山人がまだ福田大観を名乗っていた若い頃の作品のようです。

店内には、様々な書も掲げられています。

真ん中のものは、首相や元老であった西園寺公望の書。

ショーケースには、柚子型の陶器に入った柚味噌が並んでいます。

店内には、井戸も残されていました。

 

続いては、数軒先にある「春芳堂」。

1856(安政3)年創業の表具店です。

赤い文字の草書で、柔らかく書かれた店名。

こちらは、戦前の京都画壇を代表する日本画の大家・竹内栖鳳の書。

栖鳳は、春芳堂の表具を好んでいたようです。

 

最後は、いよいよ今日の本命です。

春芳堂の西隣にあるのは、1804(文化元)年創業、干菓子の「亀末廣」。

落ち着いた風情の町家に、「御菓子司亀末廣」と書かれた横長の木彫看板。
書は、中国に渡って学び、関西の書道界に大きな影響を与えた山本竟山。

何と、美しい文字の周囲には、干菓子の木型が巡らされています。

桔梗もあれば、魚や、躍動する鶴もいます。

葵や、海老に、扇子もあれば、

牡丹や、菖蒲や、飛び立つ鷹も。

これほど趣のある看板は、なかなか見ることができないかも知れません。

美しい木型で看板を縁取るという、素晴らしいアイデア

御所や二条城からの特別注文では、木型が1回だけの使用で不要となってしまうことから、このように活用されたようです。

少し暗いめの店内は、昔のままなのでしょう。

柱には、今も大福帳が掛かっていました。

看板商品は、見た目も美しい「京のよすが」。

一番小さな、手作りの箱に詰められた小サイズを購入しました。

2段重ねになっているので、見た目よりたくさん入っています。

蔵の白壁には、末広がりの扇の中で亀がはい出そうとしているデザイン。

「亀末廣」そのものですね。

 

姉小路通沿いは、看板好きにとって、とても濃密な空間でした。

看板を訪ねる小さな旅は、これからも続けてみようと思います。

時代を映し出す看板たち・京都寺町京極商店街

前回から、趣を感じる看板を求めて、京都を歩いています。

今回は、繁華街である三条通四条通を結ぶ、寺町京極商店街にやってきました。

最近は若者向けの新しいお店も増えてきましたが、まだまだ歴史のあるお店が点在する、落ち着いた商店街です。

寺町三条の角には、方位を示すきれいな舗石タイル。

その奥には、「寺町京極」の丸い提灯が見えます。

そして、手前左には、良い感じに古びた「牛肉 すき焼」の看板が。

京都を代表する高級すき焼き店の、「三嶋亭」。

創業は、1873(明治6)ということですから、牛鍋が広まった文明開化の時代です。

看板は、格子状の木枠に和紙を張ったもののようです。

二つの角には和紙を張らず、デザイン的にも美しい。

また、墨文字の柔らかく、味わい深いこと。

三嶋亭の2階部分には、もう一つ紙に書かれた額が飾られています。

「精牛肉 すき焼 三嶋亭」と墨で書いてあるようです。

こちらは、京都府2代目知事・槇村正直の書。

京都の開化政策を推し進め、寺町通に並行して新京極通を開かせた槇村知事ですから、文明開化の先駆けであった三嶋亭を、懇意にしていたのでしょう。

 

三嶋亭の真向かいには、扇子の「白竹堂」。

改築されてはいますが、看板と「喚風」と染め抜かれた暖簾の佇まいが美しい。

創業は1718(享保3)年と、老舗です。

看板は新しいものですが、明治大正期の文人画家・富岡鉄斎の「富岡百錬」という落款があるので、実物のレプリカなのでしょう。

お店の方に確認すると、実物は麩屋町通にある本店で保管しているとのこと。

「白竹堂」の屋号も、鉄斎から贈られたようです。

それまで150年以上も名乗っていた「金屋孫兵衛」の屋号を変えてしまうとは、鉄斎先生って結構押しの強い方だったようですね。

店内には、「綾扇喚風」と書いた、鉄斎の書額もありました。

暖簾の「喚風」の文字は、ここから採られているようでした。

 

白竹堂の南隣のビルを見上げると、おっ、これはなんとも古い木製看板。

台座も含めて、とても趣があるのですが、長く風雨に晒されていたのでしょう。

劣化していて、字がうまく読み取れません。

真ん中に「打刃物」とあることは、分かります。

この看板を掲げているのは、工具商の「伊勢屋」。

店内には、「エビ印モンキレンチ」などのホーロー看板とともに、工具類が並べられています。

今は、おしゃれな工芸品も置いているようです。

お店の方に伺うと、創業は「慶長3年と聞いています」とのこと。

慶長3年は、1598年ですから、江戸時代より前ですね。

伊勢商人が、京や大坂にも進出し始めた頃にあたります。

看板には、四角の中に「い」と書かれたロゴマークも見えます。

「い」は、伊勢屋の「い」なのでしょう。

看板を支える2つの台座は、歯を剥き、鰭をたなびかせた怪魚のようにも見えます。

廻船で各地と繋がった伊勢商人にとって、船の安全を見守る守り神だったのかもと、勝手に妄想を膨らませてしまいました。

 

続いて、寺町六角の角にあるのが、「総本山 御用達 安田念珠店」。

店先には、大きな念珠が掛けられています。

1683(天和3)年に、この地で創業しています。

豊臣秀吉の京都大改造によって作られた、寺院が並ぶこの寺町。

中でも参拝客の多い誓願寺の正面に位置したこともあって、お店は賑わっていたことでしょう。

 

こちらは、「川上ネーム店」。

看板には何の飾り気もありませんが、時間が紡ぎ出した風合いが感じられます。

狭い店内では、いかにも職人さんといったお父さんが作業中。

江戸でも、明治でもなく、しっかりと昭和の香りを残しています。

店頭では、家紋刺繍が並べられていました。

 

鳥居の先端が、横のビルに突きささっている錦天満宮を過ぎると、

また、良い感じの木製看板がありました。

看板は、古くて読み取ることがやや難しいですが、「茶舗 三木」とあるようです。

こちらは、享和年間(1801~1804)創業の「蓬莱堂茶舗」。

誰もが知る玄米茶を、最初に創案・販売したのは、こちらのお店です。

広くはない店内には、茶壷が並びます。

暖簾の左には、見えにくいですが、「茶舗三木蓬莱堂」と彫られた小さな看板もありました。

 

少し歩くと、強烈に異彩を放つ看板に出会います。

樹脂製ですが、角を削った八角形の内照式看板で、店名を一文字ずつ光らせています。

原色の青地に、原色の赤文字。

「名代すき焼き (ロゴマーク) キムラ」とあります。

ロゴマークは、「キ」を丸く6つ並べて、真ん中に「ラ」。

見事な昭和感覚です。

キムラの創業は、1932(昭和7)年。

昭和とともに歩んできたお店の、惚れ惚れするような風情。

最近、全国チェーンのお店も増えてきた寺町京極商店街にあって、なくてはならない存在に思えます。

 

三条通から歩いて来た商店街も、四条通まであと少し。

そんなところにあるのが、カジュアルお好み焼きの「ミスター・ヤングメン」。

こちらは看板が面白いというよりは、時代を感じさせるネーミングセンスが、すり減った木の扉や雑多な装飾とともに、面白さを感じさせてくれるようです。

 

江戸時代には商店街の原型ができていたと言われる、京都の中でも歴史のある寺町京極商店街

そこでは、木彫り看板や和紙の看板から一見何の変哲もない看板まで、様々な看板を眺めることができました。

看板たちは、ただ在るのではなく、それぞれに時代を映し出していたように思います。

歩いた距離は少ないですが、楽しい街歩きとなりました。

また、趣のある看板探しを、続けたいものです。

趣のある看板を訪ねて・京都三条通

街歩きをしていて、気になるものの一つに看板があります。

特に好きなものが、趣のある年代物の木彫り看板。

そこで今回は、木製看板を中心として、古い看板を探して歩こうと思います。

京都の三条大橋から、西に向かってスタート。

大橋は、改修したばかりなので、高欄の檜はまだ白いままです。

さっそく大橋の西詰に、五色豆の「本家 船はしや」があります。

五色豆とは、砂糖の衣をまとった煎り豆に、5色の色をつけた京都の銘菓。

1905(明治38)年創業以来、今も店の奥で五色豆を作っているそうです。

瓦葺の庇の上に、「京都名産 五色豆 舩はしや」の木製看板がありました。

小さな屋根が付けられた、風情のある厚い一枚板の看板です。

ここから西へ、三条小橋商店街が続きます。

細い高瀬川を越える三条小橋のたもとには、佐久間象山大村益次郎遭難の碑。

続いてあるのが、有職京人形司の「小刀屋忠兵衛」。

木製看板にも、「京人形 小刀屋忠兵衛」と彫られています。

はて、人形店の名前が小刀屋とは、少し違和感があるような。

ちょうど、店内に幕末維新ミニ資料館があるとのことで、入らせていただきました。

御主人のお話では、「小刀屋」は、1656(明暦2)年に創業した旅籠屋としての屋号だそうです。

江戸初期ですから、かなり古いお店です。

旅籠屋としては、道の向かい側にあった、新選組の事件で有名な池田屋よりも古いようでした。

 

さらに西へと進み、河原町通を越えて、三条名店街に入ります。

大きなアーケードに入ると、すぐ北側に、「大佛師 創業元亀三年 吉田源之丞老舗 北嶺大行満圓道(花押)」と書かれた木製看板。

元亀三年は、戦国時代の1572年。

織田信長比叡山を焼き討ちにした翌年です。

看板は新しいですが、仏具商としての歴史は長いようです。

ちなみに、書は、千日回峰行満行の光永圓道大阿闍梨でした。

 

続いて、すぐ近くの見落としそうな高いところに、すごい看板を発見。

1階のドラッグストアのかなり上に、立派な木製看板が二つ並んでいます。

向かって右側の看板。

左側の看板。

どちらも、まったく同じ字体で「本家 みすや御はり 福井藤原勝秀」とあります。

全体に見ると、右側のほうが少しだけ幅が狭いようです。

「みすや」は、京の数え唄の一つに「一条戻り橋 二条生薬屋 三条のみすや針」と唄われている、江戸初期創業の針の名店。

でも、1階は全国チェーンのドラッグストア。

みすやの店舗が見えません。

でも、大丈夫。

ドラックストアの右手に、現代風の露地が作られています。

露地の上部には、螺鈿細工で飾られた縦型の看板。

上部左右の出っ張りが、なんとも愛らしい。

露地奥の庭園と店舗。

かつて客をもてなしていたであろう茶釜が、庭の片隅に置かれていました。

 

続いては、刃物店。

「打刃物司」と書かれた切文字看板上の庇には、「登録商標 菊一文字」の木製看板。

後鳥羽上皇御番鍛冶であり刀匠の元祖とも言われる則宗が、菊の御紋を下賜されてその下に横一文字を彫ったのが始まりというのですから、なんとも古い。

作刀を中止した明治以降も、高級刃物店として続けられています。

 

次は、「大西京扇堂」。

天保年間に、大和屋の屋号で創業した京扇子店です。

京扇堂と改めたのは、明治になってからとのこと。

 

「創業明治元年 御蕎麦処 田毎老舗」。

本家田毎の寺町三条本店です。

庇に掲げられた木製看板には、かなりの個性的な字体で「御蕎麦 田毎老舗」とありました。

寺町通と交差します。

御幸町三条の南側に、古い歯科医院。

「富田歯科醫院 香雲」と、美しい字体。

すでに閉院されていて、現在はギャラリーとして活用されているようです。

 

柳馬場三条東入にある「西村吉象堂」。

木製看板には、「漆器 西村吉象堂」。

1924(大正13)年からのお店です。

 

堺町三条北東角にある、いかにも歴史を感じさせてくれる「分銅屋」。

京都で、こんな黒壁の建物は、珍しいですよね。

正面に、大きく分銅のマークと「足袋」。

青銅屋根付きの袖看板にも、同様の文字。

江戸初期の創業ということですが、なんとも言えないこの佇まい。

いいですねえ。

京都府知事からも、「京の老舗」に認定されているようです。

 

最後は、ちょっと趣向を変えて。

堺町三条下るの「イノダコーヒ本店」。

1940(昭和15)年の創業です。

京町家の店舗の南側半分は、「COFFEE COFEE COFFEE」と洋風のいで立ち。

こんな看板も、悪くはないですよね。

 

今日は、趣のある看板を訪ねて歩くという、初めての試みをやってみました。

いやあ、まだまだ有りそうですね。

でも、うかうかしていると、これらの看板はどんどん消えていくかも知れません。

また、通りや町を変えて、小さな看板の旅を続けてみたいと思います。

 

追記

三条通のレトロな建築については、次のブログにまとめています。

よろしければ、ご覧ください。

 

norajirushi.hatenablog.com

 

norajirushi.hatenablog.com

 

「打出」と「小槌」の宝寺と大山崎山荘美術館

大阪府との境にある、京都府大山崎町に来ました。

訪れるのは、昨年の夏以来です。

norajirushi.hatenablog.com

 

阪急大山崎駅のすぐ北側を通る西国街道から、天王山に向かいます。

古い民家の間を抜け、天王山に向かう小路。

角に、「銭原山寶寺」の石柱があります。

「宝寺」は通称で、正式には宝積寺(ほうしゃくじ)。

奈良時代行基が建立したことに始まる、古いお寺です。

この石柱では山号が「銭原山」となっていますが、現在は「天王山」を名乗っているようです。

小路を抜け、JR京都線の広い踏切を渡ります。

正面の山が、天王山。

踏切を越えると、天王山登り口。

宝寺は、天王山の中腹にあります。

道の向かい角には、山崎聖天への道標。

その左には、「大黒天 小槌宮 寶寺」の標柱。

大黒天を祀る「小槌宮」には、打出と小槌が収められているそうです。

「打出の小槌」ではなく、「打出」と「小槌」なんですね。

さざんかが咲き誇る、冬の坂道を登ります。

分岐点で、左に行けば宝寺。

その前に、道を右にとり、お隣のアサヒグループ大山崎山荘美術館にちょっと寄り道。

山荘美術館のゲートは、岩盤を穿った趣のある琅玕洞(ろうかんどう)。

内側の扁額には、「天王山悠遊」。

角の部分にはスクラッチレンガ、その他の部分には味わいのある焼過レンガが用いられています。

琅玕洞の手前に、何やら句碑があります。

苔むした岩の横に建つ、文豪・夏目漱石の句碑。

山荘を自ら設計して建てた実業家・加賀正太郎の招きに応じて、漱石は1915(大正4)年に訪問しています。

「宝寺の隣に住んで櫻哉 漱石

漱石は、隣の宝寺をも訪れて楽しんだようです。

 

開放的な間口の広い門から入ります。

門を入ると、いきなり左手の木々の向こうに、三重塔。

本当に宝寺は、大山崎山荘のお隣なんですね。

イギリスのチューダー・ゴシック様式に、特徴的に木骨を外側に見せるハーフティンバー様式を取り入れた本館。

加賀正太郎は、テムズ川を見下ろすイギリスのウィンザー城を訪問した記憶から、木津川・宇治川桂川の三川の合流地点が見えるこの地に、山荘を建てたようです。

本館南面。

睡蓮の池に面して、採光を意識したガラス張りの回廊。

さすがに冬には、モネの絵のような睡蓮の葉は枯れていました。

奥には、安藤忠雄設計の新館・山手館「夢の箱」。

一番奥には、白い「栖霞楼」とよばれる物見塔も見えます。

こちらは、1915(大正4)年竣工ですから、漱石訪問の年に建てられたようです。

本館玄関より入ります。

今日のお目当ては、『レオナール・フジタ 藤田嗣治 心の旅路をたどるー手紙と手しごとを手がかりに』の展示。

藤田嗣治は、第1次大戦後のパリで、自由奔放な画壇エコール・ド・パリの寵児として活躍していましたが、第2次大戦勃発を受けて日本に戻っています。

しかし、日本では、陸軍美術協会理事長に祭り上げられて戦争画の制作に取り組んだことにより、敗戦後に戦争協力者として批判されてしまいます。

日本画壇に不信感を募らせてフランスに戻った藤田は、国籍をフランスに変え、カトリックに改宗してレオナール・フジタと名前も変え、遺作として自分ですべてを設計した小さな礼拝堂を建てて、81歳でこの世を去っています。

この展覧会では、そのような藤田の心の軌跡を補足してくれる、絵画や挿画入り書簡、手仕事の作品などが多数展示されていて、見ごたえがありました。

小栗康平監督の映画『FOUJITA』で描かれていた、藤田が磔刑にされたキリストに自らをなぞらえていった背景が、少し理解できたように思います。 

作品はもちろん、美しい山荘内部も撮影禁止なので、紹介できないのは仕方がないですね。

東側の2階テラスからは、石清水八幡宮のある男山と、木津川・宇治川桂川の三川の合流地点が見渡せます。

木の力強さと温かみが伝わってくる、テラス上部。

西側の、少し狭いテラス。

テラスのドアノブも、美しいものでした。

 

大山崎山荘を一度出て、ぐるりと廻って、漱石も訪れたお隣の宝寺へ向かいます。

仁王門には、「聖武天皇勅願所」の石柱。

正式名・宝積寺は、724(神亀元)年、聖武天皇の勅願により行基が開いたお寺です。

羽柴秀吉明智光秀が戦った山崎の戦いでは、秀吉が本陣を置いたことでも知られています。

入口で立ちはだかる、金剛力士像の阿形。

吽形。

鎌倉時代の作品らしく、力強くてリアル。

どちらも、重要文化財に指定されています。

右手に見える三重塔。

大山崎山荘から見えた、あの塔ですね。

秀吉が一夜で建てたと伝えられていることから、「一夜之塔」の駒札が立っていました。

一夜で城を築いたという、秀吉の一夜城伝説から来ているのでしょう。

本殿は、残念ながら工事中。

本殿の前にあり、秀吉が腰かけて采配を振るったと伝えられる出世石も、見ることはできないようです。

手水舎に大きな亀がいるのは、寺の創建が神亀元年だからなのでしょうか。

奥に見えるのは、閻魔堂。

そして、目的の小槌宮。

小槌を手に持つ福の神とされる、大黒天が祀られています。

扁額です。

蟇股にある、宝船の彫刻。

ちょっと楽しくなる、珍しい彫刻ですね。

屋根の上の飛び狛。

小槌宮には、武天皇が夢で竜神から授けられたと伝えられる、「打出」と「小槌」が祀られているとのことです。

一寸法師』などの昔話に登場するのは、「打出の小槌」という名の、振れば様々なものが出てくる一つの槌。

でも、このお寺では、「打出」と「小槌」は別のもの。

本殿の前の灯篭を見ていると、ありました。

真ん中に彫られた棒状のものが、「打出」。

その上にある、小さな太鼓に柄がついたものが「小槌」。

「小槌」は、昔話の「打出の小槌」と同じ形状ですが、独立した「打出」の役割は、良く分かりません。

あっ、三重塔の相輪から鳥が飛び立ちました。

宝寺の門前から、三川合流地点を望みます。

下り坂には、付近で見られる野鳥が紹介されています。

確かに、近くの木でさえずる、ヤマガラたちの姿を見ることができました。

 

大山崎は、京都と大坂の境界にある町ですが、いつ来ても心を潤してくれる良い街でした。

旭通商店街とアサヒビール発祥の地・大阪府吹田市

大阪府にある吹田市といえば、万博公園千里ニュータウンのような、緑豊かな丘陵地ばかりをイメージしてしまいます。

でも、それは吹田をよく知らない私のような人間の、勝手な思い込み。

吹田にも、下町感が漂う街はありました。

JR吹田駅に直結する、サンクス1番館。

飛び掛かるゴリラに注意が必要な2番館。

駅前商店街のうち、吹田サンクス名店会だけはビルの中。

ここから南側の朝日町周辺には、いくつもの商店街が拡がります。

すぐに、中通商店街のゲート。

ほとんど読めなくなった商店街名。

昭和感のある民家の前を、細い通りが続きます。

ペットショップは、「鳥獣店」でした。

ここは吹田市

マンホールの中央には、前回大阪万博のシンボル・太陽の塔が屹立。

楽しみにしていた天ぷら食堂魚徳さんは、まだ正月休み。

本通り商店会をとおり、西側の旭通商店街へ。

旭通商店街は、広い通りの両側に並ぶ商店街。

1924(大正13)年から続いていて、吹田駅前の商店街の中で、最も古いようです。

「ガクブチの大和」の看板が、みょうに高い昔懐かしのスタイル。

おっ、その旭通商店街の奥に、さらに「新旭町通食品街」という表示が見えます。

まずは、こちらから歩いてみよう。

旭通商店街の奥には、並行して細いディープなもう一つの通りがありました。

まずは、キムチの安田商店。

ブティック「ニュー旭」。

釣銭を入れる青い籠がぶら下がる、昔ながらの青果店

その奥には、鮮魚「三兄商店」。

この日は閉まっていましたが、年季の入った暖簾と、印象的な店名。

その奥には、商店街のトイレが設けられています。

この通りは、戦後に闇市が開かれていた場所。

その空気感は、今も受け継がれているのかも知れません。

アーケードには、古い駅舎にあるような時計。

ぶら下げられた三角旗と、よく似合います。

魅惑的な狭い通りを抜けます。

でも、通りをこえて商店街は続いています。

こちらでは、商店街名は「新旭町通商店街」となっています。

メリヤス肌着のお店。

「メリヤス」って、どこか懐かしい響き。

「おしゃれの店 リー」。

よく見ると、もともとはリリーだったようです。

こちらには、太陽の塔マンホールの、カラーバージョン。

通りを抜けると、ゲートには、また「新旭町通食品街」とありました。

商店街の名称が統一されていないのも、混沌とした闇市を受け継ぐ商店街らしくて良いですね。

ゲートのすぐ左は、先ほどの旭通商店街。

角に、「たこ焼 粉武士」があります。

たこ焼きネギ盛をいただきました。

ふわふわの生地にネギがよく合い、おいしい。

てっちりすき焼き「なるを」の角から、次なる錦通商店街を通って、再び東へ。

下を歩いていると気づきませんが、アーケード上の看板が良い感じ。

焼酎Barにしきのネオン看板。

焼鳥のヒナタの店頭には、様々な部位の焼鳥が並びます。

こころ、ぼんじり、なんこつをいただきました。

最も西側の栄通商店街。

おもわず見入ってしまう、成田屋の軒先テント。

湯気立つうどん鉢の絵は、取り換え式なのでしょうか。

換気扇の排気口が、テントを突き破っています。

瓦屋根横の煙突も、懐かしい形状。

よく見ると、うどん鉢の絵の前に、「ラーメン ハクサイラーメン 豆板醤ラーメン」と書かれた白い旗が吊るされています。

この日は、閉まっていたのが残念でした。

 

JR吹田駅の北側に、もうひとつ商店街がありました。

片山商店街です。

ふとん屋さんの看板には、虹と星の楽しい電飾。

少し西へ歩くと、初詣の参拝客を迎える片山神社。

そして、大きなアサヒビール吹田工場。

駅の南側の朝日町に対して、北側のこちらは西の庄町になります。

その一角に、見事な赤煉瓦の建築がありました。

吹田工場は、アサヒビールの前身である大阪麦酒会社が、1889(明治22)年に創業しています。

ということで、この場所がアサヒビール発祥の地。

この煉瓦造の建築は、創業当時のものではありませんが、1919(大正8)年に竣工した麦芽貯蔵庫です。

ただ煉瓦を積み上げただけではなく、壁面にはデザインが施されていて、美しく堂々とした建築でした。

 

ところで、大阪麦酒会社が「アサヒビール」を発売したのが、1892(明治25)年。

当初は、「旭麦酒」と表記したようです。

線路を挟んで「旭通商店街」ができたのが1924(大正12)年。

旭通商店街のある「朝日町」の町名設置は、1963(昭和38)年。

この3つの「アサヒ」は、たぶん繋がりがあるのでしょうね。

 

今日は、知らなかった吹田の一面に触れることができ、良い街歩きとなりました。

教会のような病院と梅田駅跡、そして中津商店街

阪急電車は、大阪梅田終点に到着するまぎわ、国道176号線と並走します。

国道の右後ろに、阪急電車の小豆色ボディが少し見えています。

ここに、阪急電車の中から見ると、美しい教会に見える建物があります。

丸い塔屋の上にあるのは、どう見ても十字架・・・

ではなくて、十字に組まれた避雷針のようです。

この建築は、教会ではなく、1935(昭和10)年竣工の済生会中津病院。

設計は、朝鮮や旧満州、静岡などで多くの公共建築を手がけた中村與資平。

現在の建物は、2002(平成14)年に一旦解体され、復元されたものです。

大きな車寄せの上は、バルコニーになっています。

車寄せ上部と、バルコニーの意匠。

エントランスの照明。

この建築は、正面の外観だけでなく、内部も丁寧に復元されています。

2階回廊にある、テラコッタによる美しい装飾。

車寄せの前には、当初の建築にかかる資金を寄付した、嘉門長蔵夫妻の立派な碑がありました。

 

済生会病院のすぐ北西に、「この地に梅田駅ありき」の石碑があります。

大阪駅貨物取扱い所として1874(明治7)年にスタートし、2013(平成25)年にその役割を終えた、JR梅田駅の跡です。

車輪のモニュメントも置かれています。

2023年の2月11日までは、阪急電車の下を通る梅田貨物線を、特急が運行していました。

しかし、これも地下線に切り替えられ、現在は線路の撤去と再開発の準備が進められているようです。

工事フェンスの中には、「国有鉄道 通信」と書かれた、マンホールの鉄蓋が残ります。

一般道をまたぐ高架はまだ残りますが、線路はすでにありません。

引きはがされた枕木。

鉄塔は、基礎部分だけになっています。

あらかたは更地となり、ここにも高層ビルが建つのでしょうか。

阪急電車と交差していたあたりでは、道路脇に貴重な双頭レールが残されています。

双頭レールとは、明治初年に使われていた、頭部と底部が同じ形状に作られたレール。

製鉄が未熟だった時代に、頭部が摩耗すれば反転して底部を上にして使用したようです。

再開発によって、これも失われていくのでしょうか。

阪急電鉄中津駅

普通列車しか停車せず、驚くほどホームも狭い、小さな駅です。

高架下には、何とも味わいのある食堂とケーキ屋さん。

2階の焼肉店を示す赤く大きな矢印も、どこか懐かしい。

 

中津駅北側の公園を抜けると、少し蛇行した道沿いに、中津商店街の入口がありました。

戦後すぐの、1949(昭和24)年頃から続く商店街です。

狭い通路と、レトロな看板。

アーケードはありますが、天幕はありません。

ネパール料理店がありました。

もう多忙ではなくなってしまった、中華料理「多忙飯店」。

なぜか、店頭には米つき石。

面白い形の大根が、店先に並びます。

酒屋さん。

「アサヒゴールド」って、日本最初の缶ビールではありませんか。

当然、アルミではなくスチール缶。

缶切りで2箇所に穴をあけないと、飲めなかったのですよね。

脇の路地には、年代物の業務用自転車と古着屋さん。

ここで、商店街はおしまい。

振り返ると、アーケード越しに、別世界のもののような高層ビルが見えます。

中津は、大阪の中心部にエアポケットのように残された、ちょっと不思議なレトロ空間でした。

梅田貨物駅跡が再開発される中で、これからどのような影響があるのでしょうか。

またいずれ歩いてみたい、気になる街でした。