「針中野」とは、面白い駅名です。
針中野の「針」は、鍼灸の「鍼(はり)」と関係がありそうです。
針中野駅の少し東には、近鉄南大阪線と並行するように庚申(こうしん)街道が南北に通っています。
庚申街道は、日本の庚申信仰発祥の地といわれる四天王寺へと続く、庚申堂参りの古い道。
街道沿いには、旧家も残ります。
旧家の屋根には、珍しい亀の鬼瓦もありました。
住所表示には、しっかり「針中野」とあります。
街道沿いの中井神社。
901(延喜元)年に書かれた『日本三大実録』にも、摂津国の「田辺東社」として記される街道沿いの古い神社です。
旧街道には祠が多いものですが、この祠の向こう側、赤い郵便ポストの横に、何やら石柱らしきものが見えます。
道標です。
「☞でんしゃのり( )」、「☜はりみ( )」とあります。
少し深く埋もれているため、すべては読めません。
少し先の角に、もう一つありました。
こちらは、読めました。
「☞でんしゃのりば」、「☞はりみち」。
裏側には、「大正三年四月」とあります。
「でんしゃのりば」は、大正3年から昭和55年まで、今池から平野を結んでいた南海電鉄平野線の中野駅のことのようです。
では、「はりみち」は?
道標のすぐ西に、凝った銅葺き屋根のある、立派な門がありました。
鬼瓦には、「鍼」の文字。
こちらが、平安期の延暦年間から続く「中野鍼灸院」の、立派ですが裏門。
東住吉区のHPによると、正式な屋号は「中野降天鍼療院(なかのあまくだるはりや)」だそうです。
一子相伝を守り、現在の院長はなんと43代目。
道標の「はりみち」は、このものすごい鍼灸院への道しるべだったようです。
かつては7箇所の辻に立てられた道標ですが、今は2つが残ります。
やはり、ただの鍼灸院ではないのでしょう。
次の建物には、「中野鍼控所」とあります。
かつては、たくさんの患者が押し寄せ、この建物で治療待ちをしていたのでしょうか。
明治の頃には、近畿一円から「中野鍼まいり」として人々が殺到し、屋敷内には宿泊所も設けられていたようです。
銅葺き屋根の、「鍼の処」とよばれる治療棟。
現在も、予約制ですが、月曜から土曜まで治療が行われているようです。
その上には、「存亭」の木製看板が掛かります。
「寶永己丑」とあるので、1709(宝永6)年でしょうか。
だとすると、かなり古いものですね。
古くて読みづらいですが、「中野小児鍼」、「小児鍼 鍼灸( ) 中野鍼」と墨文字で書かれた縦型の看板も掛かっていました。
んっ、これは配達用の牛乳受け?
「古い信用 島原」とあるのは、牛乳屋さんのこと?
信用が古くて大丈夫なの?
順序は逆になりましたが、こちらが表門。
裏門が立派なのですから、表門も当然立派です。
こちらには、「なかのはり」と刳りぬかれた、透かし彫りの木製看板がありました。
庚申街道沿いの小さなお堂の裏には、中野鍼の駐車場の看板。
松皮菱に鍼と書かれた紋も描かれています。
かつて多くの患者が押し寄せ、道しるべまで立てられた中野鍼。
大正期に大阪鉄道(今の近鉄南大阪線)ができたさいには、開通に尽力した中野家41代目へのお礼として、最寄り駅の名前が「針中野」とされたというのですから、これまたすごい話。
「針中野」は「中野鍼」からきていたのですね。
中野鍼のすぐ近くに、魅力的な食堂の赤いテントが見えました。
「うどん・丼物・定食 みたや食堂」とあります。
佇まいが、なんとも良い感じ。
日替定食も良さそうですが、中華そばセット750円をいただきました。
しみじみと美味しい中華そばに、玉子丼やいろいろ副菜がついています。
途中で、バナナのデザートも出てきました。
年配のにこやかなご夫婦が営まれる、静かな大衆食堂。
始められてから、50年ほどになるそうです。
とても居心地の良いお店でした。
今回は、地名の由来をめぐる新鮮な驚きに、好みの食堂発見のおまけがついて、ちょっと楽しい街歩きとなりました。