今回も、看板を巡る京都の小さな旅です。
西木屋町から途切れながら西へと続く六角通ですが、今回は河原町あたりからスタート。
京都の「へそ」があると言われる、六角堂を目指します。
河原町から六角通に入ると、まもなく新京極のアーケードが見えてきます。
その左手に並ぶ、赤い提灯。
「日本一の鰻」を掲げる、「京極かねよ」です。
平たい出汁巻き卵でうな丼を覆った、きんし丼が名物。
明治創業のようですが、大正期の木造建築が今も残ります。
和紙の看板は、風雨にも晒され、良い感じの風合いを醸し出しています。
新京極のアーケードを越え、寺町京極商店街のアーケードも越えます。
天保年間創業の三木半旅館。
女性の髪まわりの小物を扱う、「かづら清老舗」の六角店。
お店としては、1865(慶応元)年に、「蔦屋」として創業しています。
こちらは、麩屋町六角上ルにある扇子の「白竹堂」本店。
1718(享保3)年に、「金屋孫兵衛」の屋号で創業しています。
前に見たことがあるような、明治大正期の文人画家・富岡鉄斎の字ですね。
150年以上も名乗っていた「金屋孫兵衛」の屋号を、「白竹堂」と変えたのは鉄斎。
寺町通にある三条寺町店の看板と、字の配置は少し違いますが、同じ文字です。
こちらが本店なので、掛けられているレプリカの実物があるはず。
店内で聞いてみましたが、「大切に保管しております」とのことでした。
少し西へ行くと、こちらも扇子のお店。
端正な店構えに、「美也古扇 宮脇賣扇庵」の木彫看板が掛かります。
金文字に、波型の縁までがついた、立派な出で立ち。
1823(文政6)年に「近江屋」として創業していますが、1887(明治20)年に「賣扇庵」と屋号を変えたのは、またまた富岡鉄斎。
「賣扇」とは単に扇を売るという意味でなく、三条と四条の間にあった当時の有名な桜・「賣扇櫻」から採っています。
店頭をよく見ると、2階にある天井画の案内があり、お気軽にご覧くださいと書いてあるではありませんか。
これは、ありがたい。
入口に掛かる商標・「美也古扇」の木製看板は、明治の歌人で冷泉家の冷泉為紀。
工芸品としての飾り扇は、文人墨客と深い交流があった三代目が考案したようです。
2階に上がります。
楽しげな篆書体で「賣扇庵」と書かれた木製看板。
右上の赤丸の中には、「大吉」とあります。
跋として添えられた文字も個性的で、「大観」の名が見えます。
これが、お店が所有しているという多才な芸術家・北大路魯山人の作品なのでしょう。
魯山人は、若い頃には福田大観を名乗っていました。
螺鈿細工の「美也古扇」。
富岡鉄斎の書もあります。
同じ書を、螺鈿細工で仕上げると、こうなります。
そして、たくさんの扇面図が貼りこまれた天井画。
竹内栖鳳や神坂雪佳、田能村直入、富岡鉄斎ら、京都画壇の48画伯によって描かれた作品が残っています。
丸い照明にも、扇のデザイン。
こちらは、説明用のミニチュア。
なんとも見事な私設美術館でした。
富小路通と交差する角には、1890(明治23)年創業の日本画画材店の「金翠堂」。
看板は3つあるようです。
上部にある行書体の木製看板。
「如意山人」と読めますので、晩年を京都で暮らした儒学者・谷如意の書なのかも知れません。
軒下には、右側に篆書体で「金翠堂」、左側には隷書体で「京都金翠堂製筆」とありました。
元々は、絵筆専門店だったようです。
今の建物は、大正から昭和初期にかけて建てられたようですが、なかなか面白い。
正面から見ると、3階建てのように見えましたが、横からみると2階建て。
1階の窓には、周りに銅板が張られていました。
こちらの木製看板には、「有職御雛(丸平のロゴ)人形司 大木商店」とあります。
「六六山乾堂」の名が見えるので、南禅寺の「今尾景年画龍碑」を揮毫した書家・松邨乾堂の書なのでしょう。
明和年間(1764~1772)創業で、代々「大木平蔵」の名を受け継いでいる、有名な丸平大木人形店。
ショーウインドウにも、美しい顔立ちの雛人形が飾られています。
堺町通との交差を過ぎると、黒壁にべんがら格子の和菓子店。
木枠に和紙張りの看板には、「古都の印象菓 大極殿」とあります。
1885(明治18)年に、山城屋の屋号で創業。
こちらのお店は、大極殿本舗六角店の栖園とよばれる甘味処。
店内には、「か寿てい羅 芝田商店」と書かれた、古い看板もありました。
京都でのカステラ製造の草分けでもあるこのお店の名物は、寒天に月替わりの蜜がかかる琥珀流し。
3月の蜜は、麹の香りが漂う甘酒。
寒天の上には、橘ゼリーがトッピングされ、生姜の風味と相まって美味しくいただきました。
途中、「ブルーボトルコーヒー」の壁面に、レトロな自転車が張り付いています。
これも、立体看板の一種なの?と思っていると、六角堂の前に出ました。
山門の奥に、六角形の屋根が見えます。
587年のまだ元号がなかった時代に、聖徳太子が創建したと伝えられるとても古いお寺。
華道発祥の地としても知られるこのお寺は、正式名称は「頂法寺」。
六角堂は、京都の町衆が呼び馴らわした通称です。
江戸末期まで、祇園会における山鉾巡行の順番を決める籤取り式は、このお堂で行われていたとのこと。
山門では、六角堂頂法寺の看板を取り巻くように貼られた、木製の千社札。
千社札が、ミニチュアの看板のように見えてしまいます。
六角堂の扁額。
こちらは、京都のほぼ中央にあたるらしい「へそ石」。
京都に都を遷すさい、六角堂を北へ少し移動したときに残された礎石のようです。
礎石まで、六角形なのが面白い。
通りを挟んで、六角堂の鐘楼が残ります。
応仁の乱後に町衆の自治が強まった時期には、商業都市・下京に危機が迫ると、この鐘楼から早鐘が鳴らされて町衆に知らされました。
六角堂は、地理的な意味だけではなく、まさに京都の「へそ」だったようです。
今回は、看板を訪ねて、六角堂までの六角通を歩いてみました。
そこには、文人や画家、優れた技を伝える職人や商人など、町衆の息遣いが伝わってくるような痕跡が、見え隠れしていたように思います。
六角通は、街歩きを堪能させてくれる、そんな通りでした。