のら印BLOG

野良猫のように街を探索し、楽しさを発見するブログ

急傾斜地に建つF.L.ライトの名建築・芦屋川

兵庫県芦屋市にある阪急電鉄芦屋川駅から、少し北に来ました。

芦屋川に架かる、開森橋です。

橋の東詰めからは、右奥に道が登っていきます。

坂道の起点には、「愛称名 ライト坂」の木の看板。

今日は、「近代建築の三大巨匠」のひとり、フランク・ロイド・ライト設計の旧山邑(やまむら)家住宅に向かいます。

この住宅は、灘の酒造会社・櫻正宗八代目当主の別邸として建てられています。

坂を登り始めると、左手の木の向こうに、ベージュ色の建物が見えてきます。

すごいものを見つけました。

旧山邑家住宅の敷地を示すフェンスの手前には、「急傾斜地崩壊危険区域」の看板と標柱が立っています。

知事の許可なく形状変更ができないような急傾斜地が、ライトの設計意欲をくすぐったようです。

門です。

現在は、国指定重要文化財ヨドコウ迎賓館として、公開されています。

ライトの日本での建築で、現存するものは明治村に一部のみ保存されている帝国ホテルなど、たった4つ。

そのうち、建築当初の姿をほぼ完全に残しているのは、ここと東京にある自由学園明日館だけのようです。

竣工は1924(大正13)年。

ライトの帰国後に、弟子の遠藤新、南信らによって建設されています。

出迎えてくれる、大谷石から彫り出した大きな植木鉢。

アプローチから見た、美しい側面。

彫刻を施した大谷石をふんだんに使用した、車寄せ。

到着した客は、いきなりの展望に驚いたことでしょう。

玄関扉と照明。

玄関から、あちらこちらに、四角形をデザインした青い飾り銅板が見られます。

有機的建築」を掲げ、自然と建築の融合を目指したライトにとって、この青い銅板は建築内に取り込んだ「葉っぱ」を表しているようです。

2階への階段。

縦長の窓上部からは、青銅の「葉っぱ」を通して、淡くなった光が射し込みます。

天井近くに並ぶたくさんの小窓から、自然光が降り注ぐ応接室。

三角形を組み合わせた、六角形のテーブルが来客を迎えます。

違い棚にも、四角形がデザイン化されています。

応接室にある、大谷石を組み合わせた暖炉。

暖炉の上部にも、縦に並べられた青銅の「葉っぱ」。

午後の光が差し込む、3階の長い廊下。

広いガラス窓には、もちろん青い飾り銅板。

ガラス越しに見える外の木々と、窓の「葉っぱ」から射し込む木漏れ日のような光。

光の仲立ちによって、外と内が一つに繋がっているような気になります。

和室の欄間にも、たくさん生えていますね。

床の間にある地袋の両サイドも、「葉っぱ」を介して光が入る構造になっています。

たくさんの天窓からも、優しく自然光が差し込みます。

美しい和室の窓。

和室の掃き出し窓。

広間に置かれた、旧山邑家住宅のミニチュア。

急傾斜地をうまく活用していることが、良く分かります。

プライベートスペースの入口天井には、三角形を組み合わせた特徴的なデザイン。

急傾斜地に合わせて建てられているため、階段は少し複雑。

家族寝室から見える、和室上部の天窓の外側。

4階の食堂。

こちらの天窓は、三角形。

そこから、照明も吊るされています。

個性的な、食堂天井のデザイン。

食堂にある大谷石の暖炉と、上部の木の装飾の取り合わせ。

室内にいて、自然を感じさせてくれるようです。

4階にある塔屋。

ちょっと、マヤのピラミッドを思い起こします。

最上部の石の彫刻は、何を表しているのでしょうか。

4階バルコニーからの眺望。

左に見える煙突に開けられたトンネルを通って、

3階バルコニーに移動します。

煙の通り道を、人の通り道にもしてしまうとは、何とも柔軟な発想ですね。

トンネルを移動中に、狭い三角の隙間から、きれいに海が見えました。

楽しい仕掛けです。

3階バルコニーからは、海の向こうの紀伊半島が、きれいに見渡せました。

 

普通では考えられない急傾斜地に、見事な建築を設計したフランク・ロイド・ライト

飾り銅板やたくさんの天窓により、見事に取り込まれた自然の光。

圧迫感はないが、自然を感じさせてくれる大谷石の活用。

有機的建築」という設計思想に、終始圧倒された感じの一日となりました。

魚屋道と浜沿いのヴォーリズ建築・神戸市深江

阪神電車で、神戸市灘区にある深江駅に来ました。

駅舎は船をイメージした設計で、この地域の海とのつながりを感じさせてくれます。

そもそも、「深江」という地名は、深い入り江といった意味ですよね。

実際、江戸時代から昭和40年代まで、深江は帆を立てた多くの打瀬船が停泊する、漁業の村でした。

駅舎の下を通る道路を少し海側へ進むと、道路沿いに「魚屋道(ととやみち)」の碑があります。

魚屋道は、江戸初期より続いた、深江から六甲最高峰を越え、有馬温泉に通じる山越ルートの交通路。

幕府が定めた正規の街道ではありませんが、遠回りを嫌う人々は、この道を利用して魚を有馬温泉に運んだようです。

すぐ横の、東西に交差する道路に面しては、「旧西国浜街道」の石碑。

西国街道のうち、大名の参勤交代などに使われた本街道と別に、庶民が使うのが浜街道でした。

縦に通るのが浜街道、横に通っているのが魚屋道。

ここは、江戸時代の庶民にとって、交通の要衝だったようです。

魚屋道をもう少し海側へ進み、深江大橋を越えます。

大橋の向こう側は、深江浜町とよばれる、1969(昭和44)年にできた埋立地

この埋立地ができた頃から、元の深江浜での漁業は、急速に衰退していったようです。

埋立地には、昔の深江浜に代わって神戸の魚を取り扱う、神戸市東部中央卸売市場がありました。

市場内の風景。

お正月に向け、数の子なども売られています。

2階の食堂では、サワラのたたきなど刺身4種がついた定食を、950円でいただきました(あら汁は+100円)。

ふたたび、昔の深江浜に戻ります。

昔の浜沿いの道は、防潮堤の上にあるため、他より少し高くなっています。

浜沿いの道を少し東へ行くと、旧小寺源吾別邸がありました。

昭和初期に建てられた、大日本紡績社長の海浜別荘です。

現在は、お隣の太田酒造千代田蔵さんが、貴賓館として管理しておられます。

設計は、キリスト教の伝導を目的にアメリカから来日し、多くの温かみのある建築を残したW.M.ヴォ-リズ。

アーチ状のエントランス。

南東から見た外観。

3連アーチを配したバルコニー。

おしゃれな窓格子。

エントランスの柱の意匠。

エントランス内部とユニークな照明。

脇にある作り付けの下駄箱が、腰を下ろせるベンチになっているところなど、いかにもヴォーリズといった感じでしょうか。

多くの人が集って談笑できる、大きなテーブルのある1階洋室。

ヴォーリズ建築に欠かせない暖炉は、安定した瀬戸内海沿いの気候のためでしょうか、模擬暖炉でした。

アーチ窓に挟まれた暖炉の上には、有名女優さんたちの色紙。

この建物は、映画「母性」のロケ地として使われています。

たくさんの鋲が打たれたビロード張りの椅子。

サンルームの照明は、立体化された六芒星でした。

1階の洋室とリビングは、折り畳み式のガラス戸で仕切られ、一つの部屋としても使うことができます。

ヴォーリズが好きな、壁に作り付けた戸棚。

家具の出っ張りをなくし、生活しやすい空間が作られています。

引き出しのつまみは、すべてクリスタル。

ドアにも、ヴォーリズらしいクリスタルノブ。

たっぷりと収納可能で機能的な、キッチンの作り付け戸棚。

落ち着いた木の階段と手摺り。

2階洋室にある、キャンドルの形をした照明。

2階の和室。

外観は洋館ですが、内部は和洋折衷です。

バルコニーからは、埋立地ができて狭くなった海が見えます。

この家が建てられた昭和初期には、まだ前の海は広く、地引網や打瀬網の漁で賑わっていたと思われます。

ヴォーリズも、海辺の光や風を生かせるよう、この温かみのある住居を設計したのではないでしょうか。

 

旧小寺源吾別邸のすぐ北東に、かつて深江文化村と呼ばれた区画があります。

神楽町公園にある案内板です。

革命から逃れてきたロシア人音楽家たちが居住し、彼らを慕う多くの門下生も集まって、朝比奈隆服部良一ら多くの日本人音楽家がここから生まれたそうです。

この村をデザインしたのが、ヴォーリズの弟子の吉村清太郎だったというのも、旧小寺源吾別邸と何か関係がありそうで面白い。

ただ、案内板には「宅地開発や震災により、今や2軒が現存するのみ」とあります。

1軒目は、区画の南端にありました。

1920年頃に建てられた、冨永家住宅です。

米国人建築家ベイリーにより設計された、ツーバイフォー構法の原型をなすもので、近代建築史上貴重な建築のようです。

国の有形登録文化財に、登録されています。

北側から見ると、アメリカ建築の雰囲気が良く出ています。

あと、現存するはずのもう1軒ですが、

残念ながら、ロシア風の急勾配屋根が特徴であった古澤家住宅は、更地になってしまった後でした。

 

今日は、魚屋道(ととやみち)の起点であった、かつての漁村・深江界隈を歩きました。

衰退した漁村に代わり、神戸市民に鮮魚を供給する東部中央卸売市場。

かつての深江浜に面して建てられた、温かみのある設計の海浜別荘。

大正期の異国情緒が漂う深江文化村に感じた、微かな残り香。

なかなか良い、街歩きとなりました。

摩耶山麓のレトロな建築と山頂夜景

前回からの続きです。

神戸市灘区の水道筋商店街にある、魅惑的な串カツ一燈園さん。

その前の通りから北を見ると、向こうに摩耶山が少し見えています。

今日は、目の前の坂を登り、この山の頂を目指します。

まっすぐに坂を進むと、左手に小学校。

神戸市立摩耶小学校です。

公立の小学校には珍しい、優美なデザインのエントランス。

尖頭アーチ窓が並び、

その上部には、美しいステンドグラスが配されています。

もとは、1929(昭和4)年に、神戸市立西灘第三尋常小学校として開校しています。

設計は、阪神間モダニズムを代表する建築家のひとり、古塚正治

宝塚ホテルや六甲山ホテルも手掛けています。

改修は施されていますが、当初の雰囲気は残されているようです。

このあたりでは、個人宅の塀や屋根も美しい。

坂の町である神戸。

見下ろすと、海が良くみえます。

ここから、やはりレトロな外観を残す、神戸高校を目指します。

神戸高校の正門に向かう、通称「地獄坂」。

兵庫県立神戸高等学校の正門。

OBとして、戦後活躍した白洲次郎や、作家の村上春樹小松左京らを輩出している名門校です。

三連アーチの、優雅なエントランス。

1938(昭和13)年に南欧風古城のイメージで建てられた校舎は、現在も正面玄関を中心とした四分の一が残されているようです。

屋上手すりに銃眼のある、お城のような塔屋。

塔屋は、ロンドン塔と称されているようです。

設計は兵庫県営繕課ですが、公立高校とは思えない雰囲気のある建築でした。

このあたりは、さすが神戸ですね。

 

神戸高校の裏手にまわると、すぐに摩耶ケーブル駅があります。

階段を昇っていくと、

山の色に溶け込んでいきそうな、黄緑色のケーブルカーが待ってくれています。
後ろには急勾配のレールが見えて、わくわくしてきます。

美しい木々の迫る急坂を、力強く登ります。

トンネル内では、光のアーチが連続。

約5分で、中間駅である虹の駅に到着。

紅葉した森の狭間を、登ってきました。

駅は、1925(大正14)年に建設されていますが、現在の建物は戦後まもなく再建されたものでしょう。

駅からは、間近に大きな廃墟ビルが見えます。

「廃墟の女王」ともよばれ、廃墟でありながら国の有形登録文化財に指定されているという、珍しい旧摩耶観光ホテルです。

竣工したのは、1930(昭和5)年。

設計は、甲南高等女学校などを手掛けた今北乙吉。

駅側の側面にも、最上階の左右に、アール・デコ調の丸窓が二つ確認できました。

 

ロープウェー駅に向かうため、ここから少し歩いて移動。

途中には、「山上茶店跡」の碑。

かつては、茶店や射的場などが数軒あったようです。

ロープウェーに乗り換えると、絶景です。

こちらからも、「廃墟の女王」が見えます。

眺めの良いホテルだったことは、間違いなさそうです。

約5分で山頂にある星の駅に到着。

掬星台(きくせいだい)からは、紅葉する摩耶山の向こうに、神戸の街はもちろん、湾をこえて大阪の街も一望できます。

日没後の美しい夜景。

函館市函館山長崎市稲佐山の夜景とあわせ、日本三大夜景に数えられています。

月にかかっていた雲が、途切れました。

やがて、月はくっきり。

 

摩耶山麓のレトロ建築を眺めがてら、山頂からの絶景を見に来ることができました。

ちょっと寒かったのですが、我慢するだけの価値は十分。

神戸は、どの切り口から見ても、絵になる良い街ですね。

今日もまた、楽しい街歩きができ、良い一日となりました。

王子公園に残る洋館と水道筋商店街の路地奥

阪急電鉄で、神戸市灘区にある王子公園駅に来ました。

駅の西側に、紅葉した王子公園の木々が見えます。

公園のメインは、やはり神戸市立王子動物園

ジャイアントパンダは、体調管理のために見ることができませんでしたが、レッサーパンダは元気です。

カバくんが、ゆったりと水に浮かんでいたりもします。

遊園地の背後には、摩耶山

そんな動物園の一角に、裏葉色の瀟洒な洋館が保存されています。

重要文化財に指定されている、木骨煉瓦造の旧ハンター住宅。

もともとは、1889(明治22)年頃、ドイツ人のA・グレッピーがイギリス人技師に依頼し、異人館の多い北野町に建てたもののようです。

これを、イギリス人商人であるE.H.ハンターが1907(明治40)年に買取り、改築。

現在地には、1963(昭和38)年に移築されています。

三角形のペディメントには、唐草模様。

そして、各窓にあしらわれた、特徴的な形状の白い窓枠。

窓の下には、木の列柱による装飾が並びます。

西側には、塔屋とエントランスがありました。

 

おや、カピバラやリャマの向こうにも、洋風建築が見えます。

煉瓦造なのに、和調のいぶし瓦が葺かれているようです。

ただ、こちらの建っている場所は、動物園の敷地の外。

動物園を出て、ぐるっと表にまわると、石垣に「關西學院發祥之地」と刻まれています。

動物園から見えていたのは、1904(明治37)年竣工の、関西学院大学の初代チャペルでした。

イギリス人M.ウィグノールの設計による、神戸市内に現存する最古の煉瓦造教会建築だそうです。

神戸大空襲によって大破しましたが、その後修復が繰り返され、現在は王子公園内の神戸文学館として使われています。

竣工当時の古い煉瓦も残ります。

旧礼拝堂の正面階段に使われた飾り石。

最も修復が遅れた塔屋。

屋外なのにシャンデリアがある、エントランス。

天井は、ハンマービーム・トラストとよばれる、大きなアーチ型の梁で支えられています。

尖頭アーチ型の窓。

窓には、葡萄の木の模様が、美しく復元されています。

煉瓦積みの煙突もありました。

 

神戸文学館を後にして、王子公園駅の東側へ。

神戸でも規模の大きな商店街のひとつ、水道筋商店街を目指します。

水道筋という面白い名前は、大正時代に西宮から引かれた水道管の上に、通りが作られたことからきているようです。

駅から東へ少し歩くと、西郷川という小さな川。

橋をこえると、水道筋6丁目商店街が始まります。

灘は、水の美味しいところなので、豆腐店が多い。

まずは、佐藤とうふ店で、濃厚な豆乳110円をいただきました。

まもなくすると、エルナード水道筋商店街のアーケード。

いくつもの商店街や市場が細かく連なる水道筋で、一番賑やかな通りです。

中は満席の、地元で人気の喫茶ドニエ。

ちから餅さんの店頭では、美味しそうな揚げかまぼこを販売。

懐かしげなレコード屋さんは、閉まっていました。

商店街横の路地には、魅惑的な佇まいの串カツ一燈園

入らない手はありません。

良心的な価格で、ラードの甘い香りがたまりません。

高齢のご夫婦と、娘さんで回しておられます。

お店は、1950(昭和25)年から、この場所で続けられているとのことでした。

ちょっと懐かしい「パーマ まや美容院」の看板。

「美」の文字が、ちょっと不思議。

南北に走る、灘センター商店街と交差します。

お店を何軒か合わせたと思われる、大きく安そうな青果店

表具師さんのお店もあります。

灘中央筋商店街との交差。

たまらなく良い出汁の香りが漂う、うどん屋さん。

今では見かけることが少なくなった、ミシン屋さん。

賑わうたこ焼き屋さんの向こうは、ボタン屋さん。

アーケードは終わっても、商店街は水道筋1丁目商店街として続きます。

「水道筋で酒屋一筋96年」の酒屋さん。

炭焼きうなぎと川魚の居相商店さん。

おいしい鰻巻き5切れを、300円でいただきました。

商店街の東端には、源泉かけ流しの灘温泉。

大人450円の銭湯料金で入れます。

ユニークな提灯の、猫がシャワーを浴びる絵がかわいい。

 

ここで折り返し、少し北側の、細い路地が連なるエリアも見ていきます。

閉まっているお店も多い畑原東商店街や、

東畑原市場や、

畑原市場。

そのような中にあって、健闘ぶりが目立つのが灘中央市場。

二本の通りからなるこの市場の創業は、1925(大正14)年。

あと少しで、100周年を迎えます。

プロの業者も立ち寄る、鮮魚店が目につきます。

店頭には、明石産こちや、活サワラのあぶり、伝助あなごなど、楽しい魚種が並びます。

珍しいあなごの肝煮を、200円で購入。

市場内のイートインコーナーで、いただきました。

空き店舗の場所をうまく活用しているのが、この市場の特徴。

市場内で買った食材を紙皿に盛りつけ、イートインコーナーで食べる「紙皿食堂」といった企画もあるようです。

市場内の空き地を活用した、「いちばたけ」という名の、住民が自由に参加できる菜園もありました。

あちらこちらで、イベントや企画を応援。

人の繋がりを大切にしようとする意図が、随所に窺えます。

狭い路地にフレンチレストランがあるのも、生鮮食材が豊富なためでしょう。

二本の通路が、一つにまとまる辺り。

細い通路の魅力的な曲がりは、ちょっと迷宮感を漂わせています。

地面の高さが均一でない、不思議。

今でも10円玉を入れると動く、戦車とハトの子供用遊具。

戦争と平和」なのですね。

なんとも面白く、元気がでる市場です。

頑張っている市場を見ると、嬉しくなってきます。

今日は、楽しい商店街に出会うことができ、良い街歩きとなりました。

さて、この後は、後方に見える摩耶山に向かいます。

伏見街道のインクラインと河川港跡・墨染から中書島

京と伏見をむすぶ「伏見街道」に沿って、前回は起点の五条から、中間点の藤森までをたどりました。

今回は、後半として、墨染から終点である河川港・中書島までを見ていきます。

墨染の交差点。

右奥の藤森方面から来た伏見街道は、ここで直角に曲がり、墨染通に入ります。

すぐに差しかかるのが、これまでは街道と並行して流れてきた鴨川運河。

墨染桜の伝説で知られる、墨染寺(ぼくせんじ)があります。

墨染通と師団街道が交差するところで、伏見街道は南へ左折。

師団街道は、軍都伏見を南北につないだ道路です。

すぐ左手には欣浄寺

小野小町を愛した、深草少将の邸宅跡と言われています。

あまり知られてはいませんが、江戸中期の木造大仏もあります。

西側に、「撞木町(しゅもくちょう)廓入口」と彫られた旧遊里の石柱が立ちます。

忠臣蔵大石内蔵助が、敵を欺くために遊興したと伝えられる場所です。

通りの奥には、「大石良雄 遊興の地 よろづや」の碑だけが、ひっそりと残されていました。

伏見街道には、「伏見インクライン前」のバス停がありました。

インクラインとは、船をレールに乗せて急勾配の斜面を運ぶ装置。

この伏見では、1895(明治28)年から使用され、1959(昭和34)年に撤去されています。

この写真は、左京区の蹴上にあるインクライン

こちらは、しっかり保存もされていて、良く知られています。

しかし、ここは伏見区の墨染。

インクライン」の文字は、先ほどのバス停の表示くらいしか見当たりません。

少し東側に回りこむと、鴨川運河とよばれる琵琶湖疎水に架かる出雲橋。

「大正十二年」と刻まれた、親柱も残ります。

出雲橋から南を見ると、伏見インクラインの上ダムが見えます。

右手には墨染発電所

左側は、昔の船溜まりの跡です。

もう少し南へ移動して見ると、船溜まりは上下水道局疎水事務所伏見分所のところで、西へカーブしています。

西側の伏見分所入口からみると、その誘導路が大きく下ってきています。

横から見ると、かなりの勾配。

ここにインクラインが通されていたのでしょう。

伏見インクラインは、高低差が15mあり、蹴上のものよりも急勾配だったようです。

やや東側の歩道橋から見ました。

右側の道路は、国道24号線。

真ん中で交差している細い道が、伏見街道

国道24号線の左側に並行する伏見分所の誘導路が、伏見街道を越えて手前に続いています。

この国道横にある不自然な道が、伏見インクラインの跡のようです。

鴨川運河の水は、国道24号線の下をくぐり、伏見城の外堀である濠川へと流れだしています。

15mの高低差を乗り越え、ここで二つの川が接続しました。

かつては、この難所を、荷を積んだ船が行き来していたことになります。

この下ダムの西岸には、古い石材がたくさん積み上げられています。

もしかすると、インクライン撤去のさいに、遺棄されたままなのかも知れませんね。

 

ふたたび、伏見街道を南へ進みます。

蔵のある旧家。

このあたりから、伏見街道は京町通とも呼ばれます。

昭和初期ごろと思われる、アールデコ調の装飾のある洋館。

このあたりは、伏見城の城下町。

城のあった山から西へ西へと下ってきているため、傾斜を補うための古い石垣があちらこちらに残ります。

規模の大きな町家。

歴史的意匠建造物の松村邸です。

京町通を通ってきた伏見街道は、交差する右手の下板橋通に入ります。

伏見板橋児童館の前にある、1847(弘化4)年の道標。

「東 左りふなのり(ば)」とあります。

いよいよ、伏見港が近づいてきました。

少し西には、「寒天發祥之地 伏見區御駕籠町」の記念碑。

寒天は、伏見名物・練羊羹の大切な原料でした。

安心して入れそうな理髪店の角を曲がり、納屋町通に入ります。

納屋町通に面した、御駕籠町の街並み。

通りに突き出した、「諸毒下し 大毒丸」の古い木製看板。

この建物では、今も薬局が営まれています。

納屋町商店街に入ります。

奥に緑が見える、憩いのお店MATSUBARA MILKや、

親しみやすい商品が並ぶ、ササキパン本店もあります。

納屋町通をぬけると、濠川に架かる蓬莱橋

この橋をこえると、中書島

中書島宇治川沿いの中州で、島は1950年代まで河川港である伏見港として栄えました。

宇治川は淀川に合流して大坂とつながっており、中書島は長いあいだ水運の拠点でした。

蓬莱橋を、横から見ました。

蓬莱橋の西側にある、京橋の浜。

濠川では、今も観光用の十石船が運航しています。

近くの三栖閘門資料館にあるジオラマが、かつての中書島を知るのうえで、参考になります。

近世のこのあたりは、いくつもの中州から成り立っていました。

真ん中の大きな二つの中州の東側が、もともとの中書島

その北側の橋が蓬莱橋で、その西側に京橋。

中州全体が、河川港になっているのが良く分かります。

蓬莱橋を渡る手前には、酒蔵が並びます。

坂本龍馬が常宿にしていた寺田屋は、濠川に面した港の船宿でした。

ジオラマ左上の場所にあたる、伏見であい橋付近。

橋の上流から流れてきた濠川が、橋の右奥と手前に分流しています。

そこへ左側から、角倉了以が開削した高瀬川が合流。

まさに、水運の要衝です。

こちらは、「角倉了以翁水利紀功碑」。

濠川の宇治川との合流地点の近くには、伏見みなと公園もあります。

さて、中書島の中の、今の雰囲気。

蓬莱橋の先には、少し下町感のある商店街が続きます。

ちょっとレトロな銭湯があります。

上部には、「温泉」の二文字。

煙突に、「新地湯」とあります。

1931(昭和6)年創業の銭湯の名前にも残るように、ここはかつて「新地」と呼ばれていました。

江戸期以降、ここは遊里として栄え、伏見のおいしい酒もあり、たいへん賑わったようです。

すぐ先には、京阪電車中書島駅

駅前には、「豊臣秀吉公守本尊 辨財天御像 長建寺」への道標があります。

長建寺は、駅の少し北東にある寺院。

中国風の竜宮門の奥には、伏見の名水「閼伽水(あかすい)」が湧いています。

駅前には、「日本最初の市電・中書島駅」の駒札もありました。

1895(明治28)年に開通した日本初の路面電車が、1914(大正3)年に中書島まで延長されたようです。

路面電車に必要な電力は、京都電燈によって発電されました。

旧京都電燈の火力発電所は、同じ中書島の中に残されています。

1902(明治35)年竣工の煉瓦造。

白い石も多用されていて、時代の明るい雰囲気が醸し出されています。

現在は、モリタ製作所の建物として使用されています。

 

2回にわたって、伏見街道を起点の五条から終点の中書島までたどりました。

豊臣秀吉によって開かれた街道では、近世の物流による繁栄の跡はもちろん、近代のさまざまな痕跡も見ることができ、充実した街歩きとなりました。

さて、次はどこを歩いてみましょうか。

伏見街道の石橋と軍都の名残り・五条から藤森

京と伏見の町を南北につなぐ「伏見街道」は、大和街道などとも呼ばれています。

今回は、かつての京都における動脈の一つであったこの街道を、北の端からたどってみようと思います。

まずは、その前半として、中間地点の藤森を目指します。

鴨川より少し東側の五条通

五条通と交差する本町通が、ここから南に向けて続いています。

この場所が、伏見街道の起点。

街道の終点は、城下町伏見の南端にある中書島になります。

現在は、一方通行の狭い道。

南へ進むと、すぐ左手に、豊臣秀吉を神として祀る豊国神社の鳥居。

かつて秀吉が、巨大な方広寺大仏殿を築いたところです。

鳥居の前には、耳塚。

文禄・慶長の役で秀吉軍が朝鮮半島に攻めこんださいに、首級のかわりに鼻や耳を持ち帰ったものを弔った塚です。

伏見街道は、豊臣秀吉が京と伏見城の城下町を結ぶために開かせた街道。

街道の起点には、秀吉ゆかりの古蹟が並びます。

伏見街道七条通との交差点。

七条通の奥に見える小山は、秀吉が葬られた阿弥陀ヶ峰。

街道沿いにある、京つけもの赤尾屋。

看板に、創業元禄12年とあります。

JR東海道本線の高架をくぐります。

高架下には、古い煉瓦の橋脚が残ります。

煉瓦は、強度が高いイギリス積み。

東海道本線は、開業当初はこの場所ではなく、今の奈良線のルートを一部使用していました。

この橋脚は1921(大正10)年に、ルートが付け替えられたさいのものでしょう。

しばらくすると、寶樹寺というお寺の角に、「伏水街道一之橋舊址」の石柱。

今は暗渠になっていますが、ここにはかつて今熊野川が流れていたようです。

少し北にある京都市立東山泉小中学校の敷地に、一之橋は残されていました。

小さな橋ですが、擬宝珠のついた趣のある石橋。

親柱には、「伏水街道第一橋」と刻まれています。

ちなみにこの学校は、2004(平成26)年までは「一橋」小学校でした。

一之橋は、校名に使われるほど、地元の人々にとって近しい存在だったのでしょう。

鳥居をはさんで提灯がならぶ、瀧尾神社がありました。

創建年代は不詳ですが、豊臣秀吉方広寺大仏殿建立にあわせて、伏見街道沿いに移されてきたようです。

拝殿には、驚くほど精緻な木彫が施されています。

九条通の高架下には、「伏水街道第二橋」の親柱が四本残されていました。

形状は、第一橋と同じもののようです。

ここでも川の姿は、暗渠化されていて、見ることはできません。

東側に広がる東福寺の北大門。

浄土宗西山禅林寺派の法性寺。

今は小さなお寺ですが、平安期に藤原氏の氏寺として建立され、今の広大な東福寺一帯を境内とした、もともとは大寺院でした。

そして、この法性寺が、伏見街道に一之橋から三之橋までを架け、維持していたようです。

法性寺の衰退後は、東福寺が代わって橋を管理しています。

ただし、この時代の橋は、土橋でした。

今に残る石橋となったのは、1873(明治6)年に実施された京都府伏見街道整備事業によるようです。

地酒を並べる上野酒店。

閉校している、旧京都市立月輪小学校。

この小学校は、創立時には「三橋」小学校という名前でした。

ということは・・・

やはり、すぐに「伏水街道第三橋」の親柱がありました。

第三橋は、下に川が流れる現役の橋。

この川の少し上流には、東福寺の臥雲橋、通天橋、偃月橋と、美しい紅葉の名所が並んでいます。

橋を過ぎると、すぐに東福寺の中大門。

続いて、東福寺南大門。

伏見の酒・月桂冠の菰かぶりを看板にした、伊部商店。

土人形である伏見人形の窯元・丹嘉がありました。

創業は、1750(寛延3)年。

江戸後期には、伏見街道沿いに、約60軒もの伏見人形の窯元が軒を連ねていたようです。

昭和初期頃の竣工かな?と思われる洋風建築もあります。

古い町家の「いなりのいもや」。

和菓子の稲荷ふたば。

伏見稲荷の前を通過します。

JR稲荷駅横には、国鉄時代の最古級の遺構であるランプ小屋が残ります。

今は奈良線の駅ですが、1879(明治12)年の開通当時、旧東海道本線は東山を迂回するために、この場所を通っていました。

腹帯地蔵の横を通るJR奈良線

かつて、この少し先までは旧東海道線でした。

途中、街道の東側に、宝塔寺関係の石柱が立ち並んでいます。

塔寺は、応仁の乱で焼け残った市内最古の多宝塔がある寺院。

石柱に挟まれて、「古蹟 一本松」と刻まれた石碑がありました。

かつて、この角には、街道の目印となる大きな松が生えていたようです。

幕末には、ここで禁門の変の前哨戦となる、一本松の戦いもありました。

1927(昭和2)年に建てられた、レトロな井上治療院。

古い町家の駒寄せの奥に、二体のお地蔵さんが並んでいます。

1951(昭和26)年竣工の、カトリック伏見教会。

スパニッシュ様式で、明るい印象です。

礼拝堂の天井は、三角形を組み合わせた木のトラス構造で支えられています。

梁の両隅に加えられた美しい補強部分が、とても特徴的でした。

その南側にあるのが、聖母女学院

本館は、見事な煉瓦造です。

赤い煉瓦壁と、正面にある二本の白い石のオーダー。

三角形のペディメントに、銅製の屋根と突き出したドーマー窓。

左右対称の煙突も印象的です。

このいかにも堅牢そうな建築は、戦前の旧陸軍第16師団司令部庁舎。

1908(明治41)年に建てられています。

司令部を中心とした広大な周辺一帯は、かつて陸軍の街でした。 

敷地の北側には、将校たちの社交場であった旧偕行社もありました。

現在は、ヌヴェール愛徳修道会となっています。

伏見街道につながる「第二軍道」には、今も軍の道を飾った石柱列が残されています。

軍道の先には、鴨川運河を越える「師団橋」。

橋は改修されていますが、古い親柱が残っています。

橋脚には、陸軍のシンボルである五芒星も。

銭湯の名前は、今も「軍人湯」でした。

 

伏見街道と交差する大岩街道をこえると、

了峰寺の石柱と並んで、「伏水街道第四橋」がありました。

第三橋までと同じ石の親柱ですが、欄干部分はコンクリートに直されているようです。

こちらも、橋の下に七瀬川が流れる現役の橋。

このあたりの伏見街道は、直違橋(すじかいばし)通とも呼ばれますが、これは七瀬川が街道にたいして斜めに交差していたことから名づけられたようです。

下から見ると、すごいっ。

石造のアーチ橋ですが、珍しい全円型アーチ橋です。

京都には、江戸末期に建設された大谷本廟の円通橋の例がありますが、これを模している可能性もありそうです。

確認できなかった第三橋や、今は現役ではない第一橋や第二橋も、同じ全円型アーチ橋だったのかも知れません。

その往時の姿を想像すると、ちょっと楽しくなってしまいます。

 

まもなく、街道の東側には藤森神社。

駈馬神事や、菖蒲の節句発祥地として知られています。

本殿は、1767(明和4)年に中御門天皇から下賜された御所の賢所で、現存する賢所としては最古のもの。

本殿北側の大将軍社と八幡宮は、1438(永享10)年に将軍・足利義教が造営した古いものでした。

 

神社の東隣りは、京都教育大学

構内のまなびの森ミュージアムは、旧陸軍第19旅団司令部の建物。

1897(明治30)年の建築です。

玄関前には、古い手水鉢や、コンクリートの手洗い場が残されています。

これは謎の石彫?

軍馬をかたどったものでしょうか??

 

伏見街道に戻ると、地蔵堂と並んで古い米穀店の米市本家。

「百寿米、胚芽米」の木製看板は、とても味わいのあるものでした。

今回は、古い町家が残る伏見街道を、北の五条道から中間地点の藤森までたどりました。

街道を開いた豊臣秀吉の旧蹟。

地元の人々に深く関わる四つの石橋。

あちらこちらに残る旧陸軍の名残り。

今回も、興味深い街歩きとなりました。

次回は、伏見街道中書島までたどります。

五条楽園跡のタイルと河井寛次郎記念館・陶器の道を歩く

京都市の東部、五条大橋東詰にある京阪電車清水五条駅です。

後方に、清水寺のある東山を望みます。

東に向けてゆるやかに登るこの先の道は、五条坂

清水焼の窯元や陶器店が軒をつらねています。

 

五条坂を登る前に、ちょっと寄り道。

五条大橋西詰を高瀬川に沿って少し南へ歩くと、サウナの梅湯さんがあります。

この周辺は、かつて五条楽園とよばれた旧遊郭街。

唐破風のついた妓楼建築が、いくつか残されています。

戦後は、洋風の「カフェー建築」も多く建てられ、たくさんの美しいタイルを見ることができる場所でもあります。

少し、ここで陶磁器であるタイルを見ていきます。

今は、おしゃれなレストランになっている建物の2階には、網代格子(あじろごうし)模様のタイル。

1階外壁には、布目のついた美しいターコイズブルーのタイル。

同じタイルが、玄関の段差部分にも使われています。

その他のお店でも、

浅葱色のタイルに、散りばめられたデザインタイル。

丸いアール・デコ調のステンドグラスを取り囲む、さまざまなタイル。

これも、アール・デコのステンドグラスと、細い筋がついたスクラッチタイル。

窯変タイルもありました。

やはり旧遊郭街は、タイルの宝庫のようです。

 

五条坂方面に戻り、五条通の北側を歩きます。

途中、五条通に面して、レトロな外観の銀行がありました。

明治の煙草王・村井吉兵衛が設立した、旧村井銀行五条支店。

現在は京都中央信用金庫東五条支店として、使われています。

壁面にイオニア式のオーダーが並ぶ、古典様式。

いかにも銀行といった、堅実さを感じます。

1924(大正13)年竣工で、煉瓦造石張。

設計は、村井家お抱えの建築家・吉武長一です。

清水焼の窯元があります。

こちらは陶泉窯。

陶器屋さんも並びます。

「清水焼発祥之地 五条坂」の石碑が建つ、若宮八幡宮

社殿には、「陶器神社」の提灯。

少し北に入った六原公園には、「京都市陶磁器試験所発祥地」の石碑。

後方には、登り窯の煙突が2本見えます。

1970年代より、大気汚染防止条例などによって、五条坂では登り窯が使われなくなりました。

多くの窯元が、山科区の清水焼団地や宇治市炭山に移転しましたが、一部の窯や煙突は今でも保存されています。

五条通を南側に渡り、有名な六兵衛窯横の静かな小路に入ると、今日の目的地がありました。

陶芸家であり、「民藝」運動を柳宗悦濱田庄司らと起こした、河井寛次郎の記念館です。

手仕事によって生み出された日常づかいの雑器に、美しさを見出そうとした人です。

落ち着いた佇まいの玄関内部。

来館者が使うように置かれている、傘立ての作品。

さすが、「日用の美」を追い求めた寛次郎の記念館です。

入口付近には、板張りの床に、炉と自らデザインした家具類。

この建物そのものも、寛次郎の設計です。

炉の周りにも、さりげなく美しい作品が置かれています。

看板娘のえきちゃん(7歳)もいます。

暖かい日は、縁側でお昼寝。

陶製で、豊かな風合いの沓脱石。

「喜ぶ者は皆美しい」の言葉が残されています。

左手に蹴ろくろが見える陶房。

何気なく置かれた、甕の作品。

保存されている愛用の登り窯。

使い込まれた窯の外壁は、窯変しています。

畳敷ではなく、風情のある敷物の茶室。

繊細な初期の作品。

後期の、深く碧い一輪挿しの花器。

寛次郎と、その遺愛品。

文化勲章人間国宝も辞退し、無位無冠の一陶工として生きました。

2階の静かな書斎。

小さいですが、見入ってしまう蓋つきの小箱。

大きな茶碗蒸しの器は、

このように、皆で分かち合って使ったのですね。

記念館の小路には、陶器関係の町家が続きます。

この家は、軒裏のデザインが面白い。

軒下には、陶芸作品が置かれていたりします。

すぐに突き当たる渋谷(しぶたに)街道を、東へ。

古代より山科方面に続く、古い街道です。

路傍には、古い地蔵とともに、神々が祀られていました。

道標には、「是より 西大谷 清水」とあります。

この小路の先は、鳥辺野の中心部。

五条通をこえると、大谷本廟清水寺は、すぐそこです。

京都府立陶工高等技術専門校

現代の陶工は、ここでも養成されているようです。

渋谷街道は、一時的に国道1号線と合流します。

右の大きなトンネルが、国道の東山隧道。

左の小さなトンネルが、渋谷街道にある歩行者用の花山隧道。

花山隧道を、東側から見ました。

1903(明治36)年に開通しています。

赤い煉瓦壁の上部には、苔むした「花山洞」の扁額がありました。

移転した窯元が集まる清水焼団地までは、あと少しです。

 

今回は、陶器をめぐる小さな旅でした。

かつての遊郭街に残る、懐かしさを帯びた数々のタイル。

もう煙が立ちのぼることのない、登り窯の煙突。

「暮らしが仕事」として生きた陶芸家の、生きざまを体感することができた河井寛次郎記念館。

今日の街歩きも、また楽しいものとなりました。