京都にあった幻の大池と堤の上に残る漁村の面影・巨椋池の跡を巡る
京都市伏見区で宇治川に架かる観月橋。

橋の北側に見える丘陵地は、豊臣秀吉が最初に伏見城を築いた指月の丘になります。

観月橋は、江戸中期の『都名所図会』にも、「豊後橋」として描かれています。
この絵は、手前の指月の丘から描いたもので、対岸には向島。
そのまわりには「大池」、つまり巨椋(おぐら)池が広がっています。

橋の北詰めには京阪観月橋駅があり、入口の脇には道標。

北を指さして「☜ きようかいたう(京街道)」。
南を指さして「☞ やまとかいたう(大和街道)」と刻まれています。
京・伏見から来た道は、秀吉が架けた豊後橋を渡り、奈良へと続いていたのでしょう。

南詰めの交差点には、「豊後橋址」の駒札。
その足元には、大正時代に設置された「向島村道路元(標)」が残ります。

ここでは、奈良街道(大和街道)に沿って、交差点を右折。
すぐにある右手の旧家は、かつて日本酒「ふり袖」を製造していた、明暦年間から続く向島酒造の跡。
左手には、宝暦年間創業のカネ七畠山製茶。
歴史が香る旧街道は、巨椋池の中を突っ切る堤の上を通っていたらしい。

畠山製茶の前には、「太閤堤 小倉堤址」の駒札。
土木工事好きの秀吉は、太閤堤とよばれる堤防をいくつも築かせましたが、奈良街道はそのうちの小倉堤の上にありました。

牛乳店の脇には、「明治天皇御駐輦所製工場阯」の碑。
明治維新後の殖産興業政策によって、京都初の近代的機械工場がここにあったようです。

町内会の集会所も、少し時代がかっています。
前に立つ常夜燈には、「天保四」年とありました。

古い町家が点在しています。

南へ進んで西目川まで来ると、椋の巨木が残り、いかにも旧街道の風情。

このあたりの道路脇は崖地になっていて、旧街道が池の中を通っていたことが良く分かります。

かつての池の底から、街道を見上げます。
巨椋池は、底が平らな、それほど深くはない池だったのかも知れません。

ふたたび観月橋の南詰めに戻ります。
昭和6年に建てられた石柱には、「淀川維持區域標」「淀川 從是下至海」の文字。
ここは宇治川ですが、下っていけば木津川・桂川と一気に合流して淀川となり、大阪湾に至るということですかね。
ここから宇治川の堤防沿いに西へ移動しますが、さすがに徒歩はきついので、人力付二輪車を活用します。

すぐに、近鉄京都線が通る、鉄の塊のような澱川(よどがわ)橋梁。
橋脚のない単純トラス橋としては、日本で最長のものになります。
橋脚がないのは、ここが旧陸軍の渡河訓練場であったためらしい。

間近で見ると、迫力がありますね。

堤防の下には、「葭島(よしじま)新田閘門」の碑がひっそりと残されています。
こんなところにも、川の水位を調節する閘門があったのですか。

葭(よし)が生い茂る宇治川左岸は、全国有数の「ツバメのねぐら」。
川向うには、三栖閘門の塔屋が見えます。

堤防の南側に広がる、広大な農地。
これらは、もちろんかつての巨椋池の底。
巨椋池は、水質の悪化などのため昭和前期に水を抜かれ、干拓地となりました。

やがて、池の水を宇治川に流した排水門が見えてきます。
対岸に見えているのは、淀にある京都競馬場。
この競馬場の馬場中央には、巨椋池の一部が今も残されているらしい。

堤防から下りると、「淀川渡船所」の道標。

少し東には、大きな巨椋池排水機場。

隣接する公園には、干拓当時に使用されたポンプが展示されています。
手前のタービンの台座には、「芝浦製作所」の文字。

こちらには、「荏原製作所」とありますね。

今の排水機場は、前川など用水路の水を排水しているのでしょう。

その前川の南側では、地面が小高くなっており、高台の上に古い町並みが見えます。

ここは、久御山町の「東一口」。
京都を代表する難読地名、「ひがしいもあらい」の集落です。

下から見えていたのは、御牧郷13カ村を束ねた大庄屋・山田家の、立派な長屋門のある住宅。
かつては巨椋池漁業の総帥であり、苗字帯刀を許されていたとのこと。

長屋門の屋根には鯱が飾られ、「丸に五つ引き」の家紋瓦が並びます。

客を迎える式台がついた主屋は、老朽化のため最近鉄柱で補強されたばかり。

座敷には、鶴沢探索による雲龍の襖絵。

その上の欄間では、波間で鯉が跳ねています。

展示室にあった近世初期の地図を見ると、秀吉により改造された巨椋池の様子がよく分かります。
赤い印のところが、今いる東一口。
池の周辺に張り巡らされた堤のうち、「大池堤」の上にこの集落はあったようです。

奇岩を配した庭園の向こうには、小さく伏見城の模擬天守が見えます。
山田家からは、池の向こうに見える伏見城の様子が見てとれたのですね。

裏手にまわると、山田家の住宅が、他よりも一段高くなっていることがよく分かります。

集落の中には、石段のある狭い路地も多い。

言われなければ、海沿いの漁村のように思えてきます。

旧山田家住宅から見下ろすかつての池の底には、干拓後に創建された大池神社。

境内には「大池漁業記念碑」。

近くには、川魚商の屋号が刻まれた石碑。
東一口はもちろん、京都、伏見、淀など近隣の川魚商が奉納しているようでした。
京都の内陸部に残る、大きな池と漁村の名残り。
今回は、ちょっと忘れられがちなエリアを巡ってみました。
さて、週1程度のちんたらペースで続けてきた当ブログも、今回でようやく150本目。
これを一つの区切りとして、今後は不定期の気が向いたとき投稿になりそうですが、今後ともよろしくお願いいたします。
景観を異にする五条以南と忘れられた京都の経済拠点・高瀬川②
前回より、コサギが忍び歩きしている京都の高瀬川を、上流から辿っています。

源流地点から9つの舟入跡を過ぎると、四条通と交差。

「四条小橋」を越えます。
すぐ東側で鴨川に架かる橋が四条大橋。
この細い高瀬川に架かるのが四条小橋になります。

川沿いの町名は、「船頭町」。
高瀬舟の船頭たちは、このあたりに集められていたのでしょう。

坂本龍馬も通った鶏の水炊きで知られる鳥彌三は、改修中。

佛光寺橋の下流側にも、水の堰き止め石。
ここでも底の浅い高瀬舟が通行しやすいよう、水位を上げる工夫がなされたのでしょうか。

高辻橋のたもとには、今は「大傅梅梅」が入っている、数寄屋大工・北村傳兵衛九代目の邸宅。
明治の町家建築に加えられた昭和初期の洋館部分が、今は中華レストランになっています。

洋館を覆うスクラッチタイルが、美しいですね。

続いて、和風の塔屋がある鮒鶴。
裏手の鴨川側から見た五層楼閣の姿で知られていますが、表から見るとこんな感じ。

旧門では、幕末の透かし彫り欄間を見ることができました。

高瀬川は、広い五条通が近づくとしばし暗渠に。
暗渠の上には、木屋町通から分かれて斜めに右奥へと続く、不自然な道がありました。
かつての市電木屋町線の跡のようです。

木屋町沿いの児童公園には、豊臣秀吉の命で架けられた五条大橋の橋脚が残り、「天正十七年」の刻銘を読み取ることができます。
この石橋より後の江戸時代に架け替えられた木造大橋は、小橋を伴わずに一気に鴨川と高瀬川を越える、「虹のような」大きな反り橋であったらしい。

外からは見えませんが、五条通下の暗渠内には、明治に造られた石造アーチの五条小橋も残されているようです。

五条通を越えると、おや、少し景観が変わりますね。
高瀬川沿いの並木が、古く、大きい。

橋の下部もまた、アーチ状になっています。

古木の根元には、「此附近 源融河原院址」の碑。
源融(みなもとのとおる)は、『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルであり、河原院はその邸宅。
この榎は、河原院の庭園にあった木の生き残りとも伝えられています。

高瀬川は、旧五条楽園跡の脇を抜けて南へ。
右手に見えるのは、タイル貼りのカフェー建築でしょうか。

すぐに、「高瀬川船廻し場跡」。

近くには、菊浜小学校もあったようです。
このあたりは川幅が広く、岸は砂浜のようになっており、「菊浜」とよばれていました。
菊浜には回漕店と舟繋ぎ場があり、いつも何艘かの高瀬舟が繋がれていたらしい。
ちなみに、この場所の町名は「梅湊町」になります。
浜では、梅が咲き誇っていたのでしょう。

「サウナの梅湯」前を通り、このあたりの高瀬川は南へとまっすぐに流れていきます。
ただ、これは少し西にある源融河原院の故地を徳川家光が寄進し、東本願寺の庭園である渉成園が造営されて以降の話。
高瀬川をまたいで渉成園建設が計画されたため、流路は開削からわずか30年余りで、近くにあった御土居とともに付け替えられたようです。

これは、渉成園のHPからお借りした、印月池の写真。
この大きな池は、高瀬川の旧流路を元に造られたのではないでしょうか。

現在の高瀬川は、かつてのように迂回せず、南に直進して正面橋を越えます。

近くの郵便局名に残る「米浜」の文字。
ここには、高瀬舟で運び込まれた米の取引所である米会所があったとのこと。

「七条橋」。

その西にある七条河原町の角に、診療所名として「内浜」の名前が残ります。
内浜は、ここにあった東西300m近くもある高瀬川最大の舟入。
付け替えられた御土居の内側にあったことから、内浜と呼ばれました。
陸運の動脈である竹田街道とも接続するため、周辺には材木商や薪炭商など多くの商店とその倉庫が立ち並んでいたらしい。
明治になると株式取引所までが設置され、京都の一大経済拠点となったようですが、もうその面影はありません。

木屋町通の南端まで来ると、右斜め前に続く道。
この道に沿って高瀬川の旧流路があるはずなのですが、川の姿がない。
旧流路は、かつては六条から十条までの間で、複雑に入り組んで流れていました。

現流路から離れ、旧流路跡を西へ追いかけていくと、河原町通に「高瀬川」と書かれた擬宝珠のある親柱。
でも、旧流路は暗渠となってしまったようで、橋はあれども川の姿は見えません。

河原町塩小路の少し南で、旧流路は突然復活。
二つの石臼のようなところから水が湧き出し、小さな流れとなっています。

この場所に残るのは、1907(明治40)年に建てられた旧柳原銀行。

外壁は板張りですが、銀行らしく正面には意匠を施したペディメント。
差別により融資を受けられなかった町内の皮革業者らを支えた銀行は、今も大切に保存されているようです。

貨幣を鋳造する銭座場がここに置かれたのも、高瀬川の水運との関係なのでしょう。

まもなく、奥から来た旧流路は右からの現流路と合流。

川は、JR線を越えて東九条を縦断します。

あの美しい泰山タイルを焼いていた池田泰山の製陶所は、敗戦後まではこのあたりにありました。

鴨川と交差する地点が近づくと、干上がった高瀬川が右にカーブしてゆきます。
でも、1935(昭和10)年の鴨川大洪水までは、まっすぐに進んで鴨川と交差していたらしい。

鴨川のこの場所を、流されないよう川の中に打った杭を頼りとして、高瀬舟を渡していたのでしょう。

今は、少し先で鴨川に注ぎ込みます。
まあ、水があればの話ですが。

下流から見ると、左手の小さな施設のところから、高瀬川は鴨川に流れ込むようになっています。

鴨川の対岸では、ごくわずかな流れが復活。
これが、東高瀬川となって、伏見港まで流れていくのですね。
源流から歩いてきた、細くて浅い運河である高瀬川。
上流の風情ある佇まいだけでなく、大量の物資を伏見から洛中に搬入した、京都経済の動脈としての姿が少し見えたように思います。
ホイホイ舟が往き来した水運の動脈を辿る・高瀬川①
京都の木屋町沿いを流れ、情緒あふれる川として知られる高瀬川。
今回は、桜や紅葉はありませんが、冬なりの風情を楽しみたいと思います。

ここは、その高瀬川の北端。
傍には、「高瀬川開鑿者 角倉氏邸址」の碑が建ちます。
高瀬川は、江戸初期に角倉了以・素庵の父子によって、伏見港から京都中心部に物資を搬入するために開削された運河。

川沿いの木屋町通をはさんである料亭の前には、「角倉了以別邸跡」の碑がありました。
側面には「髙瀬川源流庭苑」の文字。
よしっ、裏に回ってみよう。

料亭の裏手は、鴨川に面しています。
左手に見える料亭と、右手の広い鴨川との間に流れる細い川は、茶屋の納涼床に冷気を送るため昭和初期に整備されたみそそぎ川。
そこから料亭内に水が引き込まれています。
ああ、ここが高瀬川の源流なんだな。

高瀬川北端に戻ると、すぐ南側に「史蹟 髙瀬川一之舩入」があります。
舟入は、高瀬川に対してT字型に掘られた船溜まりで、荷の積み下ろしと舟の方向転換を行った場所。
二条~四条間には、9つの舟入が設けられていました。
しかし、他の舟入はすべて埋め立てられ、今はこの一之舟入だけが保存されています。

一之舟入を奥から逆に眺めると、こんな感じ。

ここには、水深30cmほどの高瀬川でも運航できる、平底の高瀬舟が復元されています。
小さな舟ですが、牛車では5、6俵ほどしか積めなかった米俵が、40俵も積めたらしい。

下流である南に向けて歩き始めると、すぐに佐久間象山と大村益次郎の遭難碑。
高瀬川沿いの木屋町通周辺は、長州藩の藩邸などが立ち並び、幕末前後の政局に深く関わったエリアになります。

すぐに「二之船入跡」。

御池橋のあたりには、加賀藩邸跡の碑。

荷を積んだ高瀬舟が底を擦らないよう、堰を作って水位を調節した、水の堰き止め石も残ります。

H型の石に板をはめこみ、水を堰き止めたのでしょう。

木屋町通には、幕末の志士の寓居跡が点在します。
ここでは、武市瑞山や吉村寅太郎の名前を見ることができました。

まもなく、三条小橋。
並行する鴨川の橋が三条大橋なのに対して、高瀬川の橋は三条小橋とよばれています。

橋の袂にある説明板には、不鮮明ながらも明治前期の高瀬川の写真が掲げられていました。
何艘も連ねた高瀬舟に綱をつけ、たくさんの男たちが平坦ではない川岸を歩き、力いっぱい引いているのが分かります。
男たちの「ほーい、ほーい」という掛け声から、この舟は「ホイホイ舟」とも呼ばれたようです。
荷を降ろした帰りには、森鴎外の『高瀬舟』のように、罪人を載せて川を下ることも実際にあったらしい。

三条小橋の下流側には、有名な安藤忠雄設計のTime'sビル。
川面に限界まで迫る面白い建築ですが、またテナントが入っていないようですね。

木屋町沿いには、瑞泉寺。
この寺には、豊臣秀吉から関白を譲られたが謀反の疑いをかけられて自刃した甥の秀次と、その妻子ら39名が葬られています。
妻子らは三条河原で処刑されましたが、角倉了以が高瀬川開削のさいに荒れ果てた塚と石塔を発見し、瑞泉寺を開いて弔ったとのこと。

墓所では、秀次の首級を収めた石櫃を囲むように、妻子たちの墓標が並んでいました。

残された大黒橋の親柱は、「大正三年」のもののようです。

東側の通り奥に見えるのは、先斗町歌舞練場。
劇場建築の名手・木村得三郎の設計で、1927(昭和2)年に竣工しています。

壁面に用いられているのは、やはり高瀬川沿いで生産された個性的な泰山タイル。

高瀬舟で運ばれた材木を扱う店が多かったあたりには、「材木橋」。
「木屋町通」という通り名も、このあたりから来ているのでしょう。

「六之舟入址」。

木屋町沿いの狭い路地奥にも、外国人観光客の姿が見えます。

こちらは、「車屋橋」。

番組小学校のひとつであった立誠小学校は、今は立誠ガーデンヒューリック京都として活用されています。

昭和初期に建てられた校舎は、とてもモダン。

小学校の古い木製看板と、新しい洒落たホテルの看板が並んでいるのも面白い。

校舎の前には、鍬を掲げた角倉了以の顕彰碑。

ここは、日本における映画発祥の地でもあるらしい。
日本映画ではなく、映画を発明したリュミエール社のフィルムが、1897(明治30)年にこの地で試写されたようです。

七之舟入址には、かつての高瀬川のマップがありました。
うん、確かに二条~四条間には、舟入が9つ確認できます。

「紙屋橋」。
紙もまた、高瀬舟で運ばれた商品なのでしょう。

川の中では、アオサギが微動だにせず立ち尽くしています。

「九之舟入址」。
番号をふられた舟入は、これで最後ですね。

四条通をこえます。
地下にある京都河原町駅への入口をはさんで、左側は高瀬川、右奥への通りは西木屋町通。

ここに、1934(昭和9)年開業の、外観も美しい喫茶フランソワがあります。
自由な言論が抑圧されていった戦前にあって、反戦や前衛芸術の議論が交わされたサロンでもあったようです。

尖塔アーチ窓にはステンドグラス。

当時の雰囲気をそのまま残したレトロな店内で、一休み。
すばらしい店内ですが、残念ながら手元以外の撮影は禁止でした。
大正時代まで続いた水運の動脈を辿る街歩きは、もう少し続きます。
次回は、高瀬川が鴨川を横断し、東高瀬川となるところまで歩きたいと思います。
大輪田泊の痕跡が残る兵庫運河周辺を歩く・和田岬
久しぶりに神戸市に来ました。

この駅は面白く、平日は朝と夕方以降しか列車の運行はなくて、日曜になるとそれも朝夕1本だけ。
大阪湾に突き出した岬の尖端部分には、大手の造船所などが立ち並び、和田岬線はそこで働く人たちの通勤に特化しているようです。

お昼時ともなると、立喰いうどん味沢の前に、近隣事業所からの人の列。

仲間に入れてもらい、神戸名物の「ぼっかけうどん」をいただきます。
ぼっかけは、牛スジ肉とこんにゃくを甘辛く煮込んだものが一般的ですが、ここではスジ肉100%の具だくさん。
ぼっかけをWにしてもらいましたが、それでも640円と素晴らしい。

ちょっと洒落た角打ちの前には、赤い旧和田岬灯台の縮小サイズ。
実物は現存する日本最古の鉄製灯台ですが、今は須磨海浜公園に移され、この岬にはありません。

昔ながらの駄菓子屋さんである、淡路屋。
この日も、店内には子どもたちがたくさん集まっていました。

笠松商店街は、かつてのレトロなゲートもなくなって、ひっそり。

昭和の商店街では定番の、生い茂るカポック。
よく見ると、小さな発砲スチロールの箱から育ったのですね。
旧居留地周辺とはまた一味違う、庶民的な神戸の街がここには広がっているようです。

和田岬線に沿って北西に歩くと、兵庫運河に出会います。
兵庫運河は、幕末の神戸開港により取り残された兵庫津を再生するため、明治時代に開削された日本最大級の運河。

1899(明治32)年竣工のようですが、船の通行に合わせて線路を旋回させてしまうとは珍しい。

さすがに現在は、回転しないように固定されています。

このあたりの町名は、材木町。
かつて運河は、貯木場としても使われたらしい。

貯木場前に残る、数少ない製材所。

今は、素敵な北欧家具のお店に変身していました。

兵庫運河に沿って北東へ進むと、真光寺には一遍上人の廟所があります。
一遍は、鎌倉中期に遊行しながら踊り念仏を広めた時宗の開祖。
この地での終焉の様子は、神戸市立博物館が所蔵する一遍上人絵伝断簡に残されています。

廟所の近くには、古そうな道標。
「右 者里満三知(はりまみち)」、「左 大坂道」とあります。
和田岬の地は、かつて日宋貿易で栄えた大輪田泊であり、その後の兵庫津。
言うまでもなく、交通の要衝でした。

真光寺の東隣には、大輪田泊を大修築し、近くの福原に都を遷した平清盛の塚。

基壇には、「弘安九年二月日」の刻銘。

その先には、1924(大正13)年、兵庫運河に架けられた大輪田橋。
この橋は、1945(昭和20)年の神戸大空襲のさい、多くの市民が犠牲になった場所とのこと。
石でできた親柱や欄干の下部を見ると、今も黒く焦げた跡が残ります。

橋を渡り北東角の親柱を見ると、あれっ、上部が塔のように高くなっている。
先ほど見た西詰の親柱には、上の塔部分が無かったですよね。
どうも他の親柱上部は、阪神・淡路大震災のさいに落ちてしまったらしい。
落ちた部分は残されていて、写真右隅に少しだけ写っています。

美しい石造の三連アーチ橋ですが、二度も大きく被災した大輪田橋。
記憶を受け継ぐためにも、永く残ってほしいものです。

運河沿いに北へ歩くと、戦国時代に築かれた兵庫城の跡。
「最初の兵庫県庁の地」でもあるようです。
初代県令であった伊藤博文は、ここで執務していたのですか。

こちらは、兵庫城跡の発掘調査地。

築島水門。

その近くには、瀟洒な煉瓦建築が残ります。
一つずつ異なる三角屋根が面白い。
1905(明治38)年に曽禰達蔵の設計で建てられた、旧東京倉庫兵庫出張所のようです。

明治期の兵庫運河を美しく彩った建築なのでしょう。

運河の畔には、古代大輪田泊「石椋(いしくら)」モニュメント。
運河浚渫工事のさい、一定間隔で打ち込まれた松杭とともに発見された、重さ4トンの巨石20個の1つとのこと。
大輪田泊は平清盛による大修築で知られますが、この巨石はそれ以前に築かれていた防波堤のようなものの一部だそうです。

運河には、気持ちよさげに水鳥たち。

そのすぐ西に、西国街道の札場ノ辻跡がありました。
右奥から来た西国街道は、ここで直角に曲がり左奥へと続きます。
兵庫津に立ち寄るため、街道は迂回してきたのでしょう。

残された道標には、「右 和田」「左 築(島寺?)」とあります。

街道を西へ向かうと、能福寺。
平安初期に、唐から戻り大輪田泊に上陸した最澄が開いた古い寺院です。
平清盛も、この寺で出家したらしい。

境内には、「平相國廟」とよばれる清盛の廟所もあります。

そして、高さ11mの兵庫大仏。
明治に寄進された初代は大戦中の金属類回収令で失われ、今のものは再建された2代目のようです。
兵庫大仏が、奈良や鎌倉の大仏とともに日本三大仏とよばれているとは、知らなかったなあ。

さらに街道に沿って西へ歩くと、柳原蛭子神社。

神社の角には、兵庫津柳原惣門跡がありました。
ここが、兵庫津として栄えた街の、西の玄関口だったのですね。
和田岬は、古代から繫栄した港の痕跡が色濃く残り、それでいて親しみやすい、ちょっと穴場的な街でした。
お洒落なイメージがある神戸の、また違う一面に触れ、楽しい街歩きとなりました。
京都通り名数え唄の「雪駄ちゃらちゃら魚の棚」を歩く・六条通界隈
京都市下京区にある河原町六条のT字路から、六条通は西に向けて続きます。

六条通は平安京の六条大路にあたりますが、三条通や四条通など他の大路由来の道と比べてみると、ちょっと地味な印象。

それでもT字路の少し南には、池泉回遊式庭園で知られる渉成園が、

少し北には、5柱の祭神がすべて女神という珍しい市比賣神社があります。
今回は、ここからのスタート。

お堂の形が面白い長講堂の脇を、西へ進みます。

後白河法皇ゆかりの長講堂は、往時には200か所に及ぶ荘園を所有する大荘園領主であったらしい。

高倉通と交差する角には、住宅に挟まれた赤い小さな神社。

おっ、「高市大明神」とありますね。
聞いたことのある名前じゃないですか。
でも、この高市稲荷神社は「たかいち」ではなく、「たけち」と読むらしい。


看板に「創業安政五年」とある料理・仕出しの和泉弥。
残念ながら、年末に閉店していました。

厨子二階に掲げられた仁丹町名表示には、「西魚屋町」とあります。
ここは、江戸時代に魚屋が建ち並んだ通り。
「丸竹夷に押御池・・」で始まる京都通り名数え唄に出てくる、「雪駄ちゃらちゃら魚の棚」の、あの魚の棚通ですね。

近くには、年季の入った「蒲鉾 かね太」の木製看板。
魚の棚通の名残りでしょうか。

店頭に置かれた丸い石のすり鉢は、かつて魚のすり身を作っていたものでしょう。

ああ、ここにも休業の張り紙がありますね。

通りは、「招福亭」の所でいったん突き当たり。

ちょうどお昼時だったので、自家製麺で独特の食感の茶そばをいただきました。
ひと気の少ない通りですが、どこから湧いてくるのでしょうか。
狭くはない店内は、地元の方々であふれ返っていました。

六条通は、招福亭の横から少しずれて再開。
細い通りが、ますます細くなっていきます。
この道幅が、両側に店が軒を連ねていた、江戸時代の道幅なのでしょう。

京なま麩を手作りしている、1853(嘉永6)年創業の「麩藤」。

春らしく花びら餅が並ぶ、御菓子司梅月。

歴史のある商店街では、京都駅から近いこともあり、最近では町家ホテルが増えています。

かつて魚の棚通とよばれた六条通は、広い堀川通に突き当たり、ここでおしまい。

堀川通をこえた所にある植え込みの中には、「従是南 六条御境内」の道標。
ここより南は、西本願寺の境内地となります。
さて、魚の棚通は分かりました。
でも、通り名数え唄で「魚の棚」の前に出てくる「雪駄ちゃらちゃら」は、どうなっているのでしょう。

堀川通を少し北に上がり、五条通の一本南の狭い通りを折り返します。

また、残された仁丹琺瑯看板のお世話になります。
この東西の通りは、「楊梅(ようばい)」通。
かつては履物屋が多く「雪駄屋町通」とよばれたらしい。
その文字を街で見つけることはできませんでしたが、「雪駄ちゃらちゃら」の雪駄は一応確認。

あっ、おいしい「おはぎ」で有名な今西軒は、こんな所にあったのですね。

でも、おはぎは朝のうちに売り切れたようです。

少し南には、尚徳諏訪神社。
小さな神社ですが、平安初期の征夷大将軍・坂上田村麻呂が創始したとのこと。

信州上諏訪町の住民たちにより奉納された手水鉢。

そして、角にはまた仁丹看板。
南北の通りは神社にちなんで「諏訪町通」ですが、東西の通りは、「鍵屋町」通。
「ちゃらちゃら」の最初の「ちゃら」は鍵と鍵がぶつかる音のようです。

さらに一本南の通りでは、通り名は「的場通」ですが、町名表示は「銭屋町」。
通りは、銭屋町通ともよばれたようです。
二つ目の「ちゃら」は、銭の音なのでしょう。

現在は宿泊施設が増えているこの界隈。
北から雪駄屋町通、鍵屋町通、銭屋町通と続きますが、江戸初期にはまとめて「六条三筋町」とよばれ、公認遊郭が置かれた場所でもありました。

六条通から南を見ると、東本願寺、その向こうに京都タワーが見えます。
六条通の一本南は花屋町通ですが、この通りは数え唄ではなぜか省略。


少し西に、レトロな建築を見つけました。
西本願寺の教務所である顕道会館です。

鉄筋コンクリート建築の先駆者とされる増田清の設計で、1923(大正12)年に竣工しています。

三連アーチのエントランスが美しい。

細部にも、繊細な装飾が施されています。

すぐ西側には、西本願寺。
角には、新選組が屯所とした太鼓楼も見えます。
今回は、平安京の大路にあたる東西の通りのうち、最もひっそりとした六条通とその周辺を歩いてみました。
通り名数え唄の不思議な一節についても、確認できたように思います。
蓮台野から繁栄した西陣の残影を感じて歩く・千本通
京都市北区の佛教大学前では、鷹峯街道と北山通、そして今宮通が合流して広い千本通となっています。

左奥から来る鷹峯街道は、今回歩く千本通の北端にあたります。
交差点の住所は、紫野西蓮台野町。
そう、ここは京都の三大風葬地のひとつ、蓮台野になります。

少し南に歩き、北大路通をこえて振り返ると、北東の角に見えるのは後冷泉天皇火葬塚。

近くには、近衛天皇火葬塚もあります。
平安時代には、身分の高い人は火葬に付されましたが、一般の人々は野山で風葬されていました。
この習慣は、中世まで続いたようです。

蓮台野は、この船岡山西麓に広がるエリア。
千本通の名前は、風葬する亡骸を運ぶ道沿いに、無数の卒塔婆が立てられたことから来ているとも言われています。


聖徳太子創建とも伝えられるこの古い寺には、平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像も手掛けた、平安時代を代表する仏師・定朝の墓もありました。

門前の仁丹琺瑯看板には、「鷹野十二坊町」の表示。
現在は紫野十二坊町ですから、この看板は町名変更された1941(昭和16)年以前のものなのかも知れません。

少し南に歩くと、「千本えんま堂 引接寺」。
ここが、蓮台野の入口になります。
千本えんま堂は、平安時代に現世と冥土を行き来して閻魔大王にも仕えたと伝えられる、小野篁(おののたかむら)建立の祠に始まるらしい。
鳥辺野でも化野でも、冥界との境とされた地には、必ず小野篁が痕跡を残していますね。

閻魔大王を本尊とする堂内には、地獄絵も描かれているようですが、古くてもう良く分かりません。

境内の隅には、立派な紫式部を供養する石塔。
そういえば、紫式部の墓は小野篁の墓と並んで堀川通沿いに残ります。
同じ平安時代でも少し生きた時代は違いますが、二人には特別な関係があるのでしょう。

塔の下部にはたくさんの石仏が彫られ、南北朝時代の1386(至徳3)年に建立された刻銘があります。
中世には「源氏供養」という文化があり、愛欲を描いて地獄に堕ちたとされる紫式部を供養するため、小野篁に閻魔大王へのとりなしを願ったということなのでしょうか。

通りに沿って、上千本商店街の片側式アーケードが続きます。
右手のお店は、大正元年創業の大福餅老舗。
このあたりから南は、高級絹織物の産地として栄えた西陣のエリアとなります。

看板に「創業安政五年」と書かれた銘木店の松文商店。

乾隆小学校は、1869(明治2)年に西陣町衆の手で創設された番組小学校のひとつ。

1879(明治12)年に創業した京漬物の金為。
そこかしこから、歴史の香りが漂う通りです。

千本今出川をこえて振り返ります。
左手に見えるのは、1862(文久2)年から続くお茶の岡田梅寿堂。
右手には、かつて「千本の時計塔」として親しまれたミヨシ堂時計店の建物がありましたが、現在は新しいビルに時計が掲げられています。

交差点近くには、戦前から続く千本界隈で最も古い喫茶店・静香。
旦那衆が上七軒の芸妓衆を連れて出入りしていた店のようですが、残念ながらこの日はお休みでした。
でも外観だけでも良い感じ。

味わいのあるタイルに赤い木枠、そして精緻な彫刻を施した硝子戸。
西陣の華やかかりし頃の様子が窺えるようです。

「日本映画の父」・マキノ省三が経営した千本座の跡は、今はドラッグストアに。

ウィキペディアからお借りした、往時の千本座の姿。
日本最初の時代劇映画「本能寺合戦」は、この劇場の舞台俳優を起用して撮影されました。
ちなみに、写真はマキノ省三の葬儀での光景らしい。

脇の路地にはビリヤード場、いや玉突屋が残ります。

この路地には、市電の敷石が移されていますね。
千本通には、1972(昭和47)年に廃止されるまで、京都市電が通っていました。

「西陣京極」のゲート。
この奥には、かつては飲み屋が立ち並び、狭いエリアに6軒もの映画館や劇場がありました。

昭和初期から続く老舗居酒屋は、レトロな佇まい。

千本中立売の交差点には、2つ目の時計台。
長く看板で隠されていましたが、今の牛丼チェーン店が取り外してくれたらしい。

針が止まった時計の上には、「木村」の文字。
昭和初期頃には、木村時計店の建物だったようです。
東京銀座の「銀ブラ」になぞらえて「千ブラ」という言葉があった時代には、瀟洒なビルだったことでしょう。

交差する仁和寺街道の東側を見ると、土地がかなり低く下がって行きます。

千本通と並行する土屋町通を覗くと、今度は北に向かって登っている。

こんなにも段差があるのは、なぜなんだろう。
ここは、豊臣秀吉の聚楽第西外堀があったと考えられているあたり。
京都の中心に築かれた幻の城が、関係しているのかも知れません。

千本上長者町から西を見ると、突き当りに「千本日活」の文字。
元の「五番街東宝」で、このあたりは五番町として賑わった遊郭街跡になります。
かつて30軒近くあった映画館や劇場も、今やこの最後の一軒を残すのみ。
日本映画発祥の地も、寂しくなったものです。

ここが平安京の中心部だったらしい。

以前には昼間から営業する飲食店で賑わった通りも、今は真新しいホテルが立ち並びます。

東側に見える、二条城の白壁。

元禄年間に創業した本家八ッ橋本店の看板は、富岡鉄斎の揮毫。

ここにあった大内裏の正門から、道幅が80mをこえる朱雀大路が南へ続いていたのですね。

少し南で、なんともレトロな木造建築を発見。

他では何も紹介されていない建築のようですが、セメントを扱う「吉澤商店」の倉庫らしい。

側面に、補強のための控え柱が並んでいます。
ちょっと面白い建物でした。

通りは、三条通を越えるとビルの間を抜ける狭い通りとなり、はるか南の伏見区淀まで続いていきます。
千本通は、鷹峯に始まる南北20kmの京都で一番長い通り。
今回は、このあたりで打ち止めとします。
卒塔婆が並ぶ風葬の地、西陣栄華の残影、平安京メインストリートの跡と、千本通はいつ来ても京都で異彩を放つ興味深い通りでした。
藤原北家ゆかりの古道と旧陸軍遺構・宇治街道を歩く②
前回より、墨染から宇治に至る宇治街道を歩いています。

ここは、歩いている伏見からの宇治街道と、山科からの奈良街道が合流する地点。
「六地蔵宿立場高札場跡」の碑が、今の緑鮮やかな煎茶を開発した永谷宗円の茶店前に立ちます。

その向かいには、「長坂地(蔵)」への仏道標。
街道は、ここから南へと続きます。

少し歩くと、今度は「左 長坂地蔵」の道標。
長坂地蔵は、ここより南東の長坂峠にあったようで、山中にありましたが女人巡礼で賑わったらしい。

道標のすぐ東にある浄土宗正覚院。
長坂地蔵は、明治になって、道標そばにあるこの寺に移されています。

古い街道筋には、町家や地蔵堂が点在していますが、この祠は珍しい。
小さいですが、檜皮葺じゃないですか。

まもなく、旧陸軍宇治火薬製造所木幡分工場へ向かう引込線跡の下をくぐります。
木幡や隣接する黄檗には、明治維新後から建設が進められた火薬庫や火薬製造所の跡が残っています。

街道脇には、「陸軍用地」の境界柱。

歩みを進めると、左手に許波多(こはた)神社。
大化元年に皇極天皇が藤原氏の祖である中臣鎌足に命じて、今の黄檗にある柳山に造営させたのが始まりとのことですから、古い神社です。
こちらの神社は、平安末期頃に柳山から分祀されたもう一つの許波多神社であるらしい。

境内には、この地域に点在する宇治陵の36号陵があります。
こちらは、最初の関白であった藤原基経のものと伝えられています。

東側にも引込線跡があるため、境内にも「陸軍用地」の境界柱がありました。

南へ進むと、浄土宗願行寺があります。
鎌倉時代に木幡の関守であった清水勝宗の開基ですが、もとは7世紀に藤原鎌足の子・定恵が創建した観音寺だったようです。
こちらには、藤原道長が建立した浄妙寺の本尊と伝えられる阿弥陀如来立像も残されています。

続いてあるのが能化院。
坂上田村麻呂の創建と伝えられていますが、中興したのはやはり藤原道長。
平等院鳳凰堂を造営した藤原頼通の正室も、兵火を2度もくぐりぬけた「不焼(やけず)地蔵」に、安産祈願をしていたらしい。

その少し東側には、「藤原氏塋域」と刻まれた碑があり、

宇治陵1号陵と37か所ある宇治陵の総遥拝所があります。
木幡では、そこかしこで藤原氏栄華の跡を覗うことができるようです。

街道の途中には、小さな弥陀次郎川。
弥陀次郎とは、平安時代に、今はない巨椋池で魚をとっていた荒くれ漁師のこと。
悪次郎とよばれていたが、水中から阿弥陀如来像を引き上げ、熱心な念仏行者になったらしい。

川の南側には、弥陀次郎が帰依した西方寺が残ります。
参道左側の標柱には「無量山西方寺」とありますが、

右側には「弥陀次郎西方寺」とありました。



その間にも、小さな標柱。
「宇治村道路元標」とあります。
宇治市が誕生するのは戦後のことで、道路元標が設置された大正期には、まだこの辺りは宇治村だったのですね。

少し先には、陸上自衛隊宇治駐屯地の塀越しに、煉瓦造4階建の旧陸軍砲兵工廠宇治火薬製造所給水塔が見えてきます。

屋上部分の水槽は今はなく、現在は展望塔として使用されています。

東には、柳山の旧火薬庫へと向かう道。
ここには、火薬庫の建設に伴い軍に強制移転させられた、許波多神社一の鳥居の沓石が残ります。
以前にも紹介しましたが、鳥居の基礎にあたる沓石は撤去されていないだけでなく、180度回転して残されています。
氏子たちの無言のメッセージが伝わってくるようです。

火薬製造所の敷地は、戦後に自衛隊と京都大学とに分けられたようで、キャンパス内にも旧陸軍の建築が残っているようです。

修復されてはいますが、煉瓦造平屋建の施設を見ることができました。

かつての予乾燥工場は、化学研究所・碧水舎として活用されています。

隣にも、もう一つ旧予乾燥工場。

京大では、窯業化学実験工場として使われていたらしい。

さらに進むと、右手に応神天皇の皇子であった莵道稚郎子(うじのいらつこ)の宇治墓。

風情のある長屋の前を通り、


合流地点には、「東屋観音」とよばれる鎌倉時代の石仏が座しています。

宇治橋に到着。

橋の東詰には、街道を行く旅人に向けて間口を広くとった通園茶屋。
1160(平治2)年から続いているとは、半端でなくすごい。
初代通園は、この場所で平氏に敗れた源頼政の家臣であったらしい。

店頭に茶壷と並んで置かれている初代通園像が、あの一休宗純作。
その下にポンと置かれた釣瓶が千利休作というのですから、本当にものすごい。

豊臣秀吉が利休の釣瓶で茶会の水を汲ませた橋の「三の間」から、塔の島方面を望みます。

縣神社の鳥居が立つ宇治橋西詰。

こんな観光地なのに、ねこじゃらしが生い茂る交差点脇に、この日二つ目の道路元標がありました。
先ほどは「宇治村道路元標」でしたが、今度は「宇治町道路元標」。
ここから先も、道は奈良街道として南へ続いていきます。

寄り道しながら歩いていると、冬の日没は早い。
茶師の街に、夕日が差し込んで来ました。
宇治街道は、古代から近代までの歴史がギュっと詰まった、なかなか面白い古道だったと思います。