のら印BLOG

野良猫のように街を探索し、楽しさを発見するブログ

幕府公認の薬種街で看板を訪ねる・京都二条通

今回の看板を巡る小さな旅は、京都の二条通

二条通は狭い通りですが、かつては政治都市・上京と商業都市・下京を分けた、京都にとって重要な通りでした。

鴨川に架かる二条大橋からのスタートです。

鴨川を越えると、右手に見えてくるのが、「貝葉書院」の木製看板。

貝葉(ばいよう)とは聞きなれない言葉ですが、古代インドなどで紙の無かった時代に、このヤシの一種の葉に経典などを書写していたらしい。

ということで、こちらは禅学書籍経典のお店。

1681(天和元)年に、一切大蔵経を専門に摺る書店として創業したようです。

実はこのお店、昨年までは軒上の看板とは別に、「大般若經古板再板版元」と書かれ、130年間も掲げた縦型の木製看板もあったとのこと。

残念なことに心無い何者かに持ち去られ、今はありません。

 

少し西へ行くと、また古そうな書店がありました。

看板には、「宗教書林 芝金聲堂」とあります。

天台宗のお経の本を専門に扱われているようです。

 

広い河原町通を越えます。

御幸町通を越えると、右手に年季の入った木製看板。

花冠の台座の上には、「柳桜園」の文字。

こちらは、幕末からの歴史を持つ柳桜園茶舗の看板。

大徳寺塔頭から贈られた書のようです。

古い「茶」の看板の下には、「大本山大徳寺御用達」や、「総本山知恩院御用達」の札が置かれています。

お店の中にも、買い付けに来ているのでしょう、袈裟を着た僧侶の姿がありました。

 

次は、趣は違いますが、大胆に「白衣」と書かれた昭和の看板。

寺田白衣専門店は、看板の下にある細い露地の奥で、今も営業されています。

「堀九来堂」は、1996(明治29)年創業の和菓子店。

 

東洞院通と交差する角に、トタン壁がベンガラ色に塗られた気になる建物を発見。

食料用色素のお店だったようです。

朱色の看板には、製菓洋品、香料エッセンス、食料用色素等々とあり、良く見ると「吉田商店」の文字も見えます。

二条通のこのあたりは、江戸時代には幕府公認の薬種街であったところ。

かつては100軒以上の薬問屋があったようです。

このような色素のお店や、先ほどの白衣店も、その関係で二条通に店を開いたのかも知れません。

吉田商店の2階角には、仁丹のホーロー看板が2枚残ります。

東面のものには、「上京區東洞院二條上ル壺屋町」。

南面には、「上京區二條通東洞院西入仁王門町」。

たった20cmほど離れているだけなのに、町名も異なれば、タテヨコの通り名の表記順も違います。

おもしろいですね。

ちなみに、西隣は「中嶋生薬株式会社」。

こちらは、1893(明治26)年の創業。

京の通り名数え唄にもある、二条の「きぐすりや」さんですね。

 

二条通と交差する東洞院通を、少し南に入ります。

何だかものすごく存在感のある町家があります。

庇の上には、銅葺き屋根付きの立派な袖看板。

少し読みにくいですが、「商標登録 (商標 北のロゴ) 無二膏 雨森」とあります。

裏側を見ても、書いてある内容は同じ。

台座にも銅板が使われています。

こちらは、はれ物の膿を吸い出す膏薬・無二膏を扱ってきた「雨森敬太郎老舗」。

やはり、生薬屋さんです。

1648(慶安元)年創業の老舗ですが、残念ながら現在は閉業されているようでした。

 

少し南にあるのが、古い蕎麦屋さんの「尾張屋」。

そう言えば、「蕎麦は薬」と言われますよね。

木製看板の文字が消えかかっていますが、こちらの創業は1465(寛正6)年。

なんと、あの応仁の乱よりも前になります。

もとは菓子屋だったようですが、そこから数えると、日本最古の蕎麦屋ということらしい。

ちなみに今の建物は、明治初期のものだそうです。

「そはもち 一子相」の看板もあり、蕎麦菓子のお店でもあります。

菓子処の中にも、看板が掛かります。

優しい隷書体で「蕎麦饂飩」。

へえ、うどんも出しているのですか。

「六六學人機」の名がありますので、古文壽字百体の筆写で知られる京都の書家・松邨乾堂の書のようです。

名物の「そば餅」は、江戸末期頃から作られているようでした。

 

二条通に戻ると、また生薬のお店。

看板に「(〇万)ニ條 和漢薬」とある、東田商店。

 

烏丸二条の角にも、「(〇チ)わやくや」とある千坂漢方薬局。

お店の角には、「北大路魯山人 ゆかりの地」の説明板がありました。

多彩な芸術家・美食家として知られる魯山人が、少年時代にお店で奉公していたことを伝えています。

 

その北側には、お香で有名な「松栄堂」の京都本店。

1705(宝永2)年頃に創業し、お香づくり一筋にやってこられたようです。

お香もまた、生薬と関係が深いものですよね。

入口奥には、「薫香」と書かれた雰囲気のある木製看板。

雲巖書とありました。

 

広い烏丸通を越えて、二条通を西へ進みます。

二つの建物に挟まれるように建つ、小さな祠がありました。

1858(安政5)年に、薬業仲間が祀ったことに始まる薬祖神祠です。

現在の場所には、明治期に遷座されています。

鳥居の裏側には、「明治三十九年」とありました。

ユニークな形状の扁額に記された薬祖神として、大国主神少彦名命、神農が祀られてきたようです。

面白いことに、明治になってからは、西洋医学の祖であるヒポクラテスも合祀されています。

祠の右側には、アールデコ調の建物。

二条薬業会館です。

1936(昭和11)年の竣工ですが、現在は閉まっているようでした。

二つのベンゼン環?にN I J Oとデザインされた紋章が残ります。

祠の左側には、老舗薬局の「山村壽芳堂」。

ふくよかな、お客さんが安心できそうな文字ですね。

軒下には、看板商品の心臓薬・瑞星の文字が見えます。

少し引いて見ると、薬祖神祠は、薬業会館と老舗薬局に両脇から守られているようでした。

 

今回は、二条通を薬祖神祠まで歩きました。

京都にも、大阪の道修町のような薬種街があったのですね。

二条通は、決して賑やかな通りではありません。

ですがその分、風情のある看板が静かに佇んでいるのを見つけることができる、楽しい通りでした。

京都の近代化産業遺産と咲き誇る桜・琵琶湖疎水

桜が満開だったので、京都の蹴上方面から琵琶湖疎水沿いを東へ歩いてみることにしました。

琵琶湖疎水は、着工から5年の難工事を経て1890(明治23)年に完成し、現在では近代化産業遺産に認定されている水路です。

九条山にある旧御所水道ポンプ室前には、大津から来た観光用の「びわ湖疎水船」が停泊中。

背後には、琵琶湖疎水第3トンネルの東口が見えます。

写真では良く見えませんが、トンネル上部には、初代内大臣三条実美による「美哉山河(うるわしきかなさんが)」の扁額があります。

旧御所水道ポンプ室は、御所へ疎水の水を防火用水として送る施設。

平屋の小さな施設ですが、手の込んだ造りで、竣工は1912(明治45)年。

設計は、京都国立博物館や東京の赤坂離宮を手掛けた片山東熊です。

煉瓦造に並ぶアーチ窓に、屋根に突き出した特徴的なドーマー窓。

平屋なのに、エントランス上に豪華なバルコニーがつけられているのが面白い。

 

一度、小高い九条山を下りて、山科の御陵(みささぎ)方面に向かい、再び北側の高台に向かいます。

琵琶湖疎水は、山科北部の山ぎわの高台を流れています。

第3トンネルの東口。

扁額には、初代財務大臣松方正義による「過雨看松色(かうしょうしょくをみる)」の文字。

トンネルの入口ごとに、明治政府要人の扁額がかかります。

琵琶湖疎水は、維新による東京遷都により衰退した京都を復興させるため、第3代京都府知事の北垣国道の下で進められた事業。

でも、その実は国家的事業であったことを、政府要人たちの扁額は示しているようです。

すぐ東側に、「本邦最初鐵筋混凝土槁」の石碑。

裏面には「明治三十六年七月竣工 米蘭式鐵筋混凝土橋桁 工學博士田邊朔郎書之」とありました。

これを書いた田邊朔郎は、工部大学校を卒業したばかりの23歳の若さで琵琶湖疎水の難工事を指揮した、すごい人物。

疎水の建設は、測量・設計から施工までを外国人技師の手を借りずに行った、日本初の近代的大土木事業でした。

疎水の流れをただの水運にとどめず発電に利用し、京都に市電を走らせるようになったのも、田邊の提案があったためのようです。

ということで、石碑が示す日本で最初の「鉄筋混凝土橋」がこちら。

んっ、後付けの鉄柵で守られていますが、これは言われなければ気がつきそうにない小さな橋。

橋のたもとにも、もう一つ石碑。

こちらには、「日本最初の鉄筋コンクリート橋」とありました。

疎水沿いには、桜が咲き誇ります。

川面も満開です。

しばらくすると、第2トンネルの西口。

トンネルの入口にも、一つひとつ個性があるようで、こちらは赤煉瓦に白い石の凝った装飾。

入口が、尖頭アーチ状になっています。

扁額は、「隨山到水源(やまにしたがいてすいげんにいたる)」。

初代海軍大臣西郷従道の揮ごうです。

ちなみに琵琶湖疎水では、そこここに大量の煉瓦が使われていますが、これらの煉瓦を焼いた工場は近くの御陵原西町にありました。

京都市営地下鉄東西線御陵駅前には、これを記念する「琵琶湖疎水煉瓦工場跡」の碑があります。

説明には、「当時わが国には、この大工事を賄う煉瓦製造能力がなく、京都府は自給の方針を立て」たと書かれています。

話はそれましたが、第2トンネルは短く、すぐに東口に行きあたります。

扁額は、「仁以山悦智為水歓(じんはやまをもってよろこび、ちはみずのためによろこぶ)」の縦読み4行で8文字。

初代外務大臣井上馨さん、ちょっと長いですよ。

 

少し右手には、趣のある建築。

1929(昭和4)年竣工の旧鶴巻鶴一邸、現在は栗原邸です。

鶴巻鶴一という楽しい名前の人物は、京都高等工芸学校、現在の京都工芸繊維大学の校長であった染色家。

設計は、同校の教授であった本野精吾。

特殊なコンクリートブロックを積み上げた壁に、段違いに並ぶ窓。

屋内にはたくさんの暖炉があるのでしょう、高さや形状の違う黒っぽい煙突が、あちらこちらに立っています。

門は閉ざされていましたが、時々、一般公開されることもあるようです。

国の登録有形文化財に登録されるなど、優れたモダニズム建築として評価されているとのことです。

 

本圀寺へと向かう朱塗りの橋を越えると、

右手に、コンクリートの柵が、写真では写せないほど延々と続きます。

ここの地名は、御陵(みささぎ)。

古代の中央集権国家を打ち立てる役割をはたした、天智天皇の陵墓の柵です。

御陵を過ぎると、疎水沿いの広場から、山科盆地が見渡せます。

広場のすぐ下には、東海道線

このあたりの疎水は、東海道線と山に挟まれた高台を、大津から京都までごくわずかな傾斜を付けて流れています。

疎水の山側にある、吉祥山安祥寺。

「祥」が2回使われている、珍しい寺名。

創建は848年と古く、平安初期の嘉祥元年です。

あっ、「祥」が3回目。

これは、関係がありそうですね。

かつては、山科一帯に広大な寺領を持っていたお寺のようです。

毘沙門堂へと向かう毘沙門通あたりでは、近隣のボランティアによって菜の花が植えられており、桜と春色の共演。

こちらは、琵琶湖疎水の4つのトンネルのうち、唯一戦後に作られた諸羽トンネルの西口。

後から作られたトンネルなので、扁額はありません。

横を走るJRが拡張されるさい、危険を回避するためにバイパスとして掘られたとのこと。

もともとの疎水跡を歩いていると、「第2疎水トンネル試作物」が残されていました。

第2疎水は、流量を増やすため、第1疎水と並行するように埋立トンネルとして作られています。

諸羽トンネルの東口。

このあたりは、川幅が広く作られている四ノ宮船溜です。

大きな満開の桜を過ぎると、

一燈園の前に出ます。
一燈園とは、明治末期に西田天香が始めた、争いのない生活を実践する一つの「道」のことらしい。

倉田百三の戯曲『出家とその弟子』は、ここでの体験を元に書かれたとのこと。

哲学者の和辻哲郎や小説家の徳富蘆花も通っていたようです。

こちらは、資料館の香倉院。

少し東へ行くと、藤尾橋。

このあたりから、滋賀県大津市に入ります。

煉瓦造の橋脚には、アーチ型の装飾がありました。

そして、まもなく第1トンネルの西口に至ります。

こちらの扁額は、初代内務大臣・山形有朋の揮ごう。

「廓其有容(かくとしてそれいるることあり)」と書かれています。

ここから先は、2436mもある、長い第1トンネル。

トンネルを出れば、琵琶湖はすぐそこ。

東口には、初代総理大臣・伊藤博文が書いた「気象萬千(きしょうばんせん)」の扁額が掛かります。

 

琵琶湖疎水沿いでは、維新後に衰退しかけた京都を立て直そうとする、明治の人々の真っ直ぐな熱意が、随所に見え隠れしていたように思います。

春の陽気に誘われて、今回も良い街歩きができました。

京都の「へそ」へと続く看板の道・六角通

今回も、看板を巡る京都の小さな旅です。

歩くのは、三条通の一本南側にある六角通

西木屋町から途切れながら西へと続く六角通ですが、今回は河原町あたりからスタート。

京都の「へそ」があると言われる、六角堂を目指します。

河原町から六角通に入ると、まもなく新京極のアーケードが見えてきます。

その左手に並ぶ、赤い提灯。

「日本一の鰻」を掲げる、「京極かねよ」です。

平たい出汁巻き卵でうな丼を覆った、きんし丼が名物。

明治創業のようですが、大正期の木造建築が今も残ります。

和紙の看板は、風雨にも晒され、良い感じの風合いを醸し出しています。

新京極のアーケードを越え、寺町京極商店街のアーケードも越えます。

norajirushi.hatenablog.com

天保年間創業の三木半旅館。

女性の髪まわりの小物を扱う、「かづら清老舗」の六角店。

お店としては、1865(慶応元)年に、「蔦屋」として創業しています。

 

こちらは、麩屋町六角上ルにある扇子の「白竹堂」本店。

1718(享保3)年に、「金屋孫兵衛」の屋号で創業しています。

前に見たことがあるような、明治大正期の文人画家・富岡鉄斎の字ですね。

150年以上も名乗っていた「金屋孫兵衛」の屋号を、「白竹堂」と変えたのは鉄斎。

寺町通にある三条寺町店の看板と、字の配置は少し違いますが、同じ文字です。

こちらが本店なので、掛けられているレプリカの実物があるはず。

店内で聞いてみましたが、「大切に保管しております」とのことでした。

 

少し西へ行くと、こちらも扇子のお店。

端正な店構えに、「美也古扇 宮脇賣扇庵」の木彫看板が掛かります。

金文字に、波型の縁までがついた、立派な出で立ち。

1823(文政6)年に「近江屋」として創業していますが、1887(明治20)年に「賣扇庵」と屋号を変えたのは、またまた富岡鉄斎

「賣扇」とは単に扇を売るという意味でなく、三条と四条の間にあった当時の有名な桜・「賣扇櫻」から採っています。

店頭をよく見ると、2階にある天井画の案内があり、お気軽にご覧くださいと書いてあるではありませんか。

これは、ありがたい。

入口に掛かる商標・「美也古扇」の木製看板は、明治の歌人冷泉家の冷泉為紀。

工芸品としての飾り扇は、文人墨客と深い交流があった三代目が考案したようです。

2階に上がります。

楽しげな篆書体で「賣扇庵」と書かれた木製看板。

右上の赤丸の中には、「大吉」とあります。

跋として添えられた文字も個性的で、「大観」の名が見えます。

これが、お店が所有しているという多才な芸術家・北大路魯山人の作品なのでしょう。

魯山人は、若い頃には福田大観を名乗っていました。

螺鈿細工の「美也古扇」。

富岡鉄斎の書もあります。

同じ書を、螺鈿細工で仕上げると、こうなります。

そして、たくさんの扇面図が貼りこまれた天井画。

竹内栖鳳や神坂雪佳、田能村直入、富岡鉄斎ら、京都画壇の48画伯によって描かれた作品が残っています。

丸い照明にも、扇のデザイン。

こちらは、説明用のミニチュア。

なんとも見事な私設美術館でした。

 

富小路通と交差する角には、1890(明治23)年創業の日本画画材店の「金翠堂」。

看板は3つあるようです。

上部にある行書体の木製看板。

「如意山人」と読めますので、晩年を京都で暮らした儒学者・谷如意の書なのかも知れません。

軒下には、右側に篆書体で「金翠堂」、左側には隷書体で「京都金翠堂製筆」とありました。

元々は、絵筆専門店だったようです。

今の建物は、大正から昭和初期にかけて建てられたようですが、なかなか面白い。

正面から見ると、3階建てのように見えましたが、横からみると2階建て。

1階の窓には、周りに銅板が張られていました。

 

こちらの木製看板には、「有職御雛(丸平のロゴ)人形司 大木商店」とあります。

「六六山乾堂」の名が見えるので、南禅寺の「今尾景年画龍碑」を揮毫した書家・松邨乾堂の書なのでしょう。

明和年間(1764~1772)創業で、代々「大木平蔵」の名を受け継いでいる、有名な丸平大木人形店。

ショーウインドウにも、美しい顔立ちの雛人形が飾られています。

 

堺町通との交差を過ぎると、黒壁にべんがら格子の和菓子店。

木枠に和紙張りの看板には、「古都の印象菓 大極殿」とあります。

1885(明治18)年に、山城屋の屋号で創業。

こちらのお店は、大極殿本舗六角店の栖園とよばれる甘味処。

店内には、「か寿てい羅 芝田商店」と書かれた、古い看板もありました。

京都でのカステラ製造の草分けでもあるこのお店の名物は、寒天に月替わりの蜜がかかる琥珀流し。

3月の蜜は、麹の香りが漂う甘酒。

寒天の上には、橘ゼリーがトッピングされ、生姜の風味と相まって美味しくいただきました。

 

途中、「ブルーボトルコーヒー」の壁面に、レトロな自転車が張り付いています。

これも、立体看板の一種なの?と思っていると、六角堂の前に出ました。

山門の奥に、六角形の屋根が見えます。

587年のまだ元号がなかった時代に、聖徳太子が創建したと伝えられるとても古いお寺。

華道発祥の地としても知られるこのお寺は、正式名称は「頂法寺」。

六角堂は、京都の町衆が呼び馴らわした通称です。

江戸末期まで、祇園会における山鉾巡行の順番を決める籤取り式は、このお堂で行われていたとのこと。

山門では、六角堂頂法寺の看板を取り巻くように貼られた、木製の千社札

千社札が、ミニチュアの看板のように見えてしまいます。

六角堂の扁額。

こちらは、京都のほぼ中央にあたるらしい「へそ石」。

京都に都を遷すさい、六角堂を北へ少し移動したときに残された礎石のようです。

礎石まで、六角形なのが面白い。

通りを挟んで、六角堂の鐘楼が残ります。

応仁の乱後に町衆の自治が強まった時期には、商業都市・下京に危機が迫ると、この鐘楼から早鐘が鳴らされて町衆に知らされました。

六角堂は、地理的な意味だけではなく、まさに京都の「へそ」だったようです。

 

今回は、看板を訪ねて、六角堂までの六角通を歩いてみました。

そこには、文人や画家、優れた技を伝える職人や商人など、町衆の息遣いが伝わってくるような痕跡が、見え隠れしていたように思います。

六角通は、街歩きを堪能させてくれる、そんな通りでした。

味わいのある看板を巡る・御池通から寺町を北へ②

前回は、京都市中京区の寺町通にある商店街「寺町会」を、御池から二条まで北上しました。

今回は、この商店街を丸太町まで歩いて、味わいのある看板を探りたいと思います。

寺町二条にある、創業およそ100年の「熊谷道具處」。

この通りに多い、古美術のお店の一つです。

左から書き出している看板は、戦後のものと思われますが、なかなかの達筆です。

 

その北側には、和風建築が多いこの通りにあって、目立つ洋風建築の「村上開新堂」。

創業は、1907(明治40)年です。

正面に大きく、「村上開進堂菓舗」の切り文字看板。

昭和初期の木造建築で、アールがつけられたショーウインドウや大理石が、レトロさを醸し出しています。

これはウィンドウのサンプルですが、ロシアケーキなど、商品もレトロ感を楽しめるようです。

 

向かいにある、「三月書房」。

看板は何の変哲もありませんが、その下のシャッターがすごい。

4年前に閉じたお店ですが、在りし日の店内が見事に描かれています。

本当に、今も開いているかのように見えてしまいますよね。

厳選された本だけを並べた、濃密な空間を懐かしく思い出します。

 

「五色豆元祖 舩はしや總本店」の木製看板。

元々は煎豆屋だったため、かつては北大路魯山人が力強く書いた、「雑穀煎豆専業」の看板を掲げていたようです。

(五色豆元祖株式会社舩はしや總本店 ホームページより)

「昭和30年頃のもの」とされるこの写真では、掛かっていることが確認できますが、残念ながら今は残っていません。

五色豆が、同じく京都の伝統菓子・八ッ橋と一緒に、セットで販売されていました。

 

続いて、京漆器の「象彦 京都寺町本店」。

モダンな店構えですが、創業は1661(寛文元)年。

当初は、「象牙屋」という名前で、同じ寺町ですが綾小路に店を開いています。

3代目西村彦兵衛の作品・蒔絵額「白象と普賢菩薩」が評判を呼び、「象彦の額」と呼ばれたことから、店の呼び名も「象彦」と変わっていったようです。

看板や暖簾のロゴマークが、何とも楽しい。

愛らしい象の絵と彦の篆書体が、デザインされています。

明治頃から、使用されているようです。

 

木製看板に「御筆墨硯司」とある、書道用品の「龍枝堂」。

1781(天明元)年の創業です。

店内には、たくさんの筆が並びます。

書道パフォーマンスで使われる特大筆も、置かれていました。

 

少し北には、有名な奈良の墨匠「古梅園」の京都支店。

奈良の古梅園は江戸時代以前からありますが、京都支店は1714(正徳4)年の創業です。

店頭には、古い手動墨すり機も置かれていました。

古梅園の前には、「此附近 藤原定家京極邸址」の碑。

ほう、『新古今和歌集』や『小倉百人一首』を撰じ、『明月記』を残したあの方の邸跡が、こんなところに。

 

間口は狭いですが、丸みをつけた腰壁に古い竹板を使用した、趣のある店構えの寿司店

切り文字看板には、「寿司 末廣」とあります。

天保年間(1830~1843)の創業。

冬の京都では、蒸寿司の名店として知られています。

 

向かいには、これまた古いお茶の「一保堂」。

1717(享保2)年創業の日本茶専門店です。

もともとは「近江屋」と称して陶器なども扱っていたようですが、幕末に山階宮から今の屋号を下賜されたのを機に、「茶一つを保つ」お店になったとのこと。

黒壁には、「(入り山形に三星の家紋)一保堂」の切り文字看板。

昨年末に耐震補強をからめた改装を終えましたが、店舗は蛤御門の変による「どんどん焼け」後のもので、築150年を越えています。

店内には、お茶と和菓子がいただける、喫茶室「嘉木」も併設されていました。

 

こちらは、「古典籍 藝林荘」。

戦後すぐから、営業されているようです。

落款もある木製看板ですが、「BOOK STORE GEIRINSO」と横文字も彫りつけてあるのが面白い。

店先には、屏風絵や御朱印船絵馬の複製図などが並べられていました。

 

古書店「文苑堂」の、流れるような文字の看板。

インパクトのある文字です。

蕎麦店・寺町更科の「創業明治四十五年」と書かれた看板を過ぎると、

「こうどう」と呼ばれる革堂行願寺

そして下御霊神社と、平安時代からの寺社が続き、ここを過ぎるとゴールの丸太町通

 

もう一度、スタート地点の寺町御池のほうに戻ります。

昔ながらのエイト珈琲店で、一休み。

良く見ると、緑のテントの上部に、大きく「Eight」と書かれた形跡があります。

どうも、大きな切り文字看板があったものを、取り外した跡のようでした。

お店北側の上部も、同じ。

壁を塗り直すさいに、取り外したのかも知れませんね。

名前は消しても、お店は健在です。

ちょっとほの暗い、落ち着く店内。

マスターのいるカウンターの上には、ステンドグラス。

おいしいコーヒーをいただいて、この日は終了です。

 

寺町通のこの周辺は、江戸時代から文化的なエリアとして続いてきたのでしょう。

さりげなく古いお店が並ぶ通りからは、培われた歴史の香りが漂ってくるようでした。

 

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味わいのある看板を巡る・御池通から寺町を北へ①

今回も、京都で看板を訪ねて歩きます。

これまでも歩いて来た寺町通りを、もう少し北まで歩いてみます。

寺町御池の交差点。

まっすぐに続く細い通りが、寺町通です。

ここから丸太町通までの間に、アーケードはありませんが、「寺町会」という商店街が続きます。

戦中の強制疎開で広げられた御池通りを越えると、右手に工事が続く京都市役所が見えます。

市役所の正面玄関。

1927(昭和2)年に、「関西建築界の父」と呼ばれる武田五一の監修で建てられています。

塔屋があり、窓やバルコニーや壁面などあちらこちらに装飾が目立つ、役所としては珍しいネオバロック様式

そして、ありました。

篆書体で「京都市役所」とあります。

これが、京都市役所の看板にあたるのでしょうか。

 

市役所西側には、ちょっとレトロな「加納洋服店」。

1927(昭和2)年の竣工です。

「KANO」という切り文字看板の上には、「HIGH CLASS CUSTOM TAILOR」と書かれています。

テーラーという響きは、良いですね。

この建物の不思議なところは、3階のアーチ窓がすべて閉ざされていること。

北側から見ても、開口部はありません。

それもそのはず、これは3階建てのコンクリート造に見せた「看板建築」。

実際は、木造2階建ての町家の屋上部に衝立のような壁をとりつけて、洋風建築に見せかけています。

このお店の場合、3階部分すべてが看板なのかも知れません。

 

寺町通を少し北に進むと、シャッターが下りているお店の木製看板。

「永生堂」という店名に、店主への為書が添えられています。

こちらは、100年続いた手焼きあられのお店だったとのこと。

職人さんの高齢化により、残念ながら閉店されたようでした。

 

続いて、また古い木製看板がありました。

看板には、「蚊帳眞綿蒲團商 浅井商店」とあります。

でも、1階の店舗はおしゃれなカフェレストラン。

蚊帳や布団を売っている気配はありません。

浅井商店は、どうなったのでしょうか。

階段部分を見ると、「浅井ビル」とありました。

まだ、ビルの所有は浅井商店のようです。

 

古い象の台座に乗った、読めない木製看板もありました。

一枚板ではありませんし、全体に白く塗装されていたのでしょうか。

中には接客用の座敷が見えますが、店舗全体を見ても、何のお店なのか良く分かりません。

近づいてみると、磨りガラスの部分に「書畫 骨董」の文字が見えました。

なるほど、このあたりに多い骨董屋さんでしたか。

 

白地の看板の「洋酒食料品 冨屋商店」。

1932(昭和7)年から、当時は珍しかった輸入酒や輸入食品を扱ってこられたようです。

こじんまりした町家に、やや大きめの看板が良く似合います。

 

次に出会ったのが、黒地に味のある篆書体の看板。

珍しい金属製の看板のようです。

清課堂」の文字が、今にも踊りだしそうです。

京都の書家・森岡峻山の書です。

端正な外観の金属工芸専門店、「清課堂」。

だから、看板も金属製だったのですね。

1838(天保9)年に、錫(すず)師として創業したようです。

今では、現存する日本最古の錫工房とのこと。

店頭には、美しい金属工芸品が並んでいました。

 

店内が様々なボタンで溢れる、ボタンの店「エクラン」。

このお店には、100万個以上のボタンが置いてあるそうです。

でも、上部の切り文字看板には、「ボタン」の3文字だけ。

このシンプルさが、魅力的です。

 

その向かいには、額や看板専門店の木彫看板。

こちらは、江戸時代から続いている「清水末商店」。

少なくとも慶応元年に店があったことは確認できますが、創業がいつかは不明のようです。

「額看板」と力強く彫られた看板には、専門店の矜持が感じられるようです。

 

寺町通二条通と交差する角まで来ると、井原西鶴の句碑がありました。

「通い路は  二条寺町 夕詠(ゆうながめ)」。

夕景色の中、寺町の絵草紙屋から四条河原の涼み床へと通う粋人たちのことを詠んだようです。

浮世草子人形浄瑠璃の作者として知られる西鶴ですが、俳諧師でもあったのですね。

 

独特な風情を見せてくれる寺町会の商店街は、このあと丸太町通まで続きます。

続きは、また次回に。

 

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日本一長いアーケード商店街と天満駅裏界隈

前回は、大阪市の北浜から天神橋筋を目指して歩きました。

今回は、いよいよ日本一長い天神橋筋商店街に入ります。

1丁目から始まるアーケード。

天神橋筋は、古くから大阪天満宮の表参道として栄えていたようです。

江戸時代には、天下の台所を支えた大坂三大市場の一つ天満青物市場や、寄席などの歓楽街として賑わっていたとのこと。

1.9kmの商店街ができたのが、明治初期。

アーケードが設置されたのが、1957(昭和32)年。

現在のアーケードの長さは南北2.6kmで、歩いて約40分かかります。

まずは、生そばの「天一更科」。

大阪らしく、出汁が利いていそうですね。

赤い切り文字で「萬(よろず)金物百貨」と書かれた看板の、旭商店。

1947(昭和22)年創業と、戦後すぐからのお店です。

2丁目に入ると、大きな「大阪天満宮 参詣道」の赤い提灯。

提灯の下に、勘亭流で「繁昌亭」と書かれた看板がぶら下がっています。

奥に見えるのが、天満宮の敷地内にある寄席の繁昌亭。

手前にある「喫茶ケルン」の看板には、COFFEE&繁昌亭カレーの文字。

手描きイラストの桂文福師匠は、「繁昌亭で笑ってカレーなる人生を!!」と、ちょっと小噺。

1972(昭和47)年から営業されている店内には、落語家や俳優のサインが所狭しと並んでいます。

気さくなマスターが、大阪弁を学ぶためにこの店でアルバイトをしていた有名俳優のエピソードなどを、教えてくださいました。

こちらが、名物の繁昌亭カレー。

果実のまろやかさに溢れていて、かつスパイシー。

確かに、おいしいカレーでした。

 

天神橋筋2丁目に戻り、洋品店の「なみき」。

店舗前を、これでもかと有効活用しています。

2階の窓からも、通りに突き出した照明灯にも、隙間なく吊るされた商品。

お客さんは、どうやって手に取るのか、ちょっと不思議。

行列が絶えることのない、コロッケの「中村屋」。

ラードで揚げたコロッケの甘さは、健在です。

広い曽根崎通でアーケードが途切れる部分では、ゲートの上部に文楽人形。

人形浄瑠璃作者の近松門左衛門は、天満に住んで、多くの心中物を著しました。

道路の向こう側にも、ありますね。

木戸に貼られた、「60年 ありがとうございました」。

路地裏にあったラーメン・餃子の「おばちゃんとこ」は、閉店したようです。

でも、「千林で会いましょう」とありますから、閉業ではありません。

大阪の出汁文化を支える昆布屋さん。

江戸時代の大坂は、日本海沿岸を巡る北前船で運びこまれた昆布が、集積する町でもありました。

こちらの「浪華昆布」は、1900(明治33)年の創業です。

 

天三商店街では、頭上高く鳥居が並びます。

大衆肉酒場があれば、通りの向かいにも大衆酒場の看板。

ここは「大衆」御用達の商店街のようです。

木製看板がかかる御菓子司「薫々堂」。

1864(元治元)年に、天満宮の戎門前で創業した老舗。

戦災で店舗が焼けたため、現在の場所に移転したとのこと。

天神橋筋商店街で、江戸時代から続く、数少ないお店のひとつです。

こちらは、木枠のガラス戸奥にふるいなどの商品が見える「藤為金網」。

1871(明治4)年の創業と、意外と古いお店です。

次は、星4つの天道虫が目印の「天4」、天神橋筋4番街へ。

おや、ここだけは4丁目ではなく、4番街なのですか。

落ち着いた佇まいの「コーヒーハウス ビクター」。

1967(昭和42)年からと、喫茶店としては老舗です。

店内は、中2階や半地下のフロアもある、面白い構造になっています。

マンホールは、桜の咲き誇る大阪城

玉のよく出るパチンコ屋さんとしか思えない、吹っ切れた原色看板もあります。

こちらは、大阪名物「スーパー玉出」の看板。

すぐ東側には、JR天満駅

駅北側の、天神筋橋商店街と繋がる細い通路。

駅から北に向かうこちらにも、駅裏感あふれる細い路地。

路地の右側には、高熱で焼け焦げたと思われる、かなり古い煉瓦の壁。

煉瓦壁の途中には、「天満市場」と書かれ、閉ざされたシャッターもありました。

この壁は、元々は1888(明治21)年より操業していた天満紡績のもの。

大阪大空襲をくぐりぬけ、以前は天満市場の壁として活用されていたようです。

天満市場は、このすぐ北側に、「ぷららてんま」として現在も存続しています。

そのさらに北には、最近では裏天満とよばれるエリアが続きます。

こちらは、裏天満ちょうちん通り。

天満らしい青果店に隣接して、居酒屋が並びます。

裏天満での五箇条の御誓文

新しい店が多いようですが、以前の天満市場の雰囲気がよく活かされています。

この看板は、すごい。

まだ微かに店名や電話番号が残っている古い看板に、「上海食亭」と上書きして使われていました。

斬新というか、逞しいというか、珍しい看板です。

駅裏から天神橋筋商店街に通じる、天五横丁のディープな路地。

路地は、「三好屋昆布老舗」のところで商店街に合流。

こちらは、100年を超える老舗だそうです。

町中華の「精養軒」。
ネオン看板の豚の夫婦が、ちょっと可愛らしい。

「魚伊」の看板には、大きく「鰻 創業慶応三年」と書かれています。

アーケードの上部に、「天五商店街」と「てんろく」の看板が並びます。

ここからが、天神橋筋六丁目

古い木製看板を残す「小西辰薬局」は、1906(明治39)年の創業。

60年以上続いている、喫茶「コロンボ」。

ロゴマークの「C」が、赤い唇のようで魅惑的。

天六アーケードの終点には、「大阪くらしの今昔館」があります。

今回は、看板を見るだけ。

延々続いて来たアーケードも、天六で終わりです。

でも商店街としては、「てんひち」まで続きます。

大阪では、七を「ひち」と読むのが、しっくりきますね。

天七商店街の街灯には、「ユウラク座」とか、

「ホクテンザ」の看板が残ります。

でも、これらの映画館は、残念ながら今はありません。

 

帰りには、天四に戻り、お好み焼き「千草」に立ち寄りました。

路地裏にあり、1949(昭和24)年から営業されている、雰囲気のあるお店です。

スジ玉モダンを、自分で焼いていただきました。

 

天神橋筋商店街は、大阪では最も知られた商店街です。

これまでも訪れたことはありますが、路地裏のある商店街は、何度歩いても楽しいものですね。

また、新しい発見を求めて、商店街を歩きたいものです。

北浜から日本一長い天神橋筋商店街へ

今回は、大阪市にある京阪電車・北浜駅から、日本一長いと言われる天神橋筋商店街を目指して歩きます。

北浜と言えば、大阪の金融街

地下の駅から出ると、すぐに大阪の経済発展に貢献した五代友厚の像。

その後ろには、存在感のある円筒形の大阪取引所。

長谷部竹腰建築事務所の設計です。

この建築は、1935(昭和10)年に竣工していますが、2004年に全面増改築されたさいにも、この円型エントランスホールは残されました。

大理石の床面には、天秤を表しているのでしょうか、アールデコ調の幾何学模様がデザインされています。

こちらもアールデコの、美しいステンドグラス。

残された街灯も、面白い。

 

道路を挟んで向かいにも、おしゃれな洋館があります。

大きなティーポットが吊り下げられたこちらは、現在は英国紅茶とスイーツのお店「北浜レトロ」。

もともとは、1912(明治45)年に大林組の設計・施工で建てられた、株式関係者の集会所「株友会倶楽部」でした。

向かいの証券取引所と、深いつながりがあったようです。

タイル張りなので外見からは分かりづらいですが、実は明治の煉瓦建築。

美しいデザインの窓枠などは、竣工当時のままのようです。

国の登録有形文化財にも指定されています。

使い込まれたドアと取っ手。

こちらのエンブレムは、ティールームへと改装する際に取り付けられたものでしょう。

 

さて、天神橋筋をめざし、難波橋を渡って土佐堀川堂島川を越えます。

親柱の上には、石造の獅子が鎮座。

獅子にも阿吽があるようで、こちらは吽形。

難波橋の通称は、「ライオン橋」です。

橋上からは、中之島にある中央公会堂の赤煉瓦アーチも見えます。

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銅製の街灯。

橋の中ほどには珍しく塔があり、大阪市章である澪標(みおつくし)が刻まれています。

澪標は、かつて難波江の浅瀬などに立てられていた、水路の標識。

現在の橋は、1915(大正4)年に架けかえられたものです。

上をまたいでいるのは、阪神高速1号環状線

橋の高欄にも、澪標はデザインされていました。

 

難波橋を渡り切ってすぐ東の道に入ると、堀川筋の角に古い土蔵。

錆びた看板には、「乾物問屋(マルキューのロゴ)株式会社北村商店」とあります。

この辺りは、蔵のまちと呼ばれる天満の菅原町。

近世大坂三大市場のひとつであった天満青物市場が発展するなかで、隣接するこの地に乾物問屋街もできたたようです。

建ち並ぶ蔵は、乾物の保存に適していたようですね。

ちなみに、北村商店の創業は、1752(宝暦2)年だそうです。

裏町筋に入っても、マルキューの蔵は続きます。

昆布だしをきかせた上方の出汁文化は、この地域に支えられてきたのでしょう。

近くには、崩落しないよう、丸ごと網で覆われたすごい土蔵もあります。

ごまを販売する、和田萬の萬次郎蔵もありました。

 

まもなく、裏町筋が広い今の天神橋筋と交差するので、北へ向かいます。

今の天神橋筋の一本東に、少し細い元々の天神橋筋がありました。

通りの入口には、天神橋筋1丁目を意味する、「天神橋1」と書かれたゲートがあります。

ここが、日本一長い商店街のスタート地点。

でも、そのすぐ右手に目をやると、なんとも魅力的なビルが。

ビル全体からアートが溢れ出る、「フジハラビル」。

商店街に入る前に、まずはこちらから。

1923(大正12)年竣工の鉄筋コンクリート造。

外壁表面のスクラッチタイルが、風合いを醸し出しています。

古い木製のドア枠と、ドア上の欄間部分のデザインも良い感じですね。

黄色いブーツは、もちろんアート作品。

このビルでは、ネズミさんが手紙を届けてくれるようです。

少し暗い屋内に差し込む光が、

良く使い込まれた階段に、味わいを加えてくれます。

いたるところにアート。

ふと窓の外に目をやると、隣の屋根の上にも、昼寝する犬や鳥、斃れたガンマンなどがいるようです。

スイッチまでも、このとおりでした。

 

天神橋筋商店街1丁目に戻ります。

昭和天一ビルには、「熱き心で楽しくおもてなし スナック ルンルン」の看板。

昭和のビルは、こうでなくっちゃね。

鳥居筋まで来ると、「日本一長~い商店街 天神橋1丁目」と書かれた、アーケードの入口。

アーケードの総延長が長い商店街は他にもありますが、天神橋筋の商店街はまっすぐ南北に続いています。

入口には、紅い梅の花とともに、「表参道」の表示も。

この商店街は、大阪天満宮の表参道としても栄えてきたようです。

 

アーケードに入ろうと思いましたが、また、右手の鳥居筋沿いに気になるお店が見えます。

「創業元禄元年 大阪名代 株式会社とりゐ味噌」の看板があります。

ロゴマークは、鳥居に「みそ」。

創業した元禄元年は、1688年。

この商店街は、1653(承応2)年に青物市が立ったことに始まっているので、商店街の中でもかなり古いお店のようです。

ショーケースには、年代物の陶製味噌樽が置かれていました。

「大阪天満天神前」と書かれています。

大阪天満宮鳥居前に店を構えたから、「とりゐ味噌」なのですね。

 

確かに、すぐ北側に大阪天満宮の表大門がありました。

この神社の祭りが、日本三大祭りの一つ天神祭りになります。

大門の少し西には、「大阪ガラス発祥之地」の石碑もありました。

江戸中期の宝暦年間に、長崎商人・播磨屋清兵衛がオランダより伝わったガラス製法を学び、ここで製造を始めたようです。

 

さて、そろそろ天神橋筋商店街の中を歩こうと思います。

でも、少しブログが長くなってしまいました。

ということで、続きは、また次回に。