前回より、コサギが忍び歩きしている京都の高瀬川を、上流から辿っています。

源流地点から9つの舟入跡を過ぎると、四条通と交差。

「四条小橋」を越えます。
すぐ東側で鴨川に架かる橋が四条大橋。
この細い高瀬川に架かるのが四条小橋になります。

川沿いの町名は、「船頭町」。
高瀬舟の船頭たちは、このあたりに集められていたのでしょう。

坂本龍馬も通った鶏の水炊きで知られる鳥彌三は、改修中。

佛光寺橋の下流側にも、水の堰き止め石。
ここでも底の浅い高瀬舟が通行しやすいよう、水位を上げる工夫がなされたのでしょうか。

高辻橋のたもとには、今は「大傅梅梅」が入っている、数寄屋大工・北村傳兵衛九代目の邸宅。
明治の町家建築に加えられた昭和初期の洋館部分が、今は中華レストランになっています。

洋館を覆うスクラッチタイルが、美しいですね。

続いて、和風の塔屋がある鮒鶴。
裏手の鴨川側から見た五層楼閣の姿で知られていますが、表から見るとこんな感じ。

旧門では、幕末の透かし彫り欄間を見ることができました。

高瀬川は、広い五条通が近づくとしばし暗渠に。
暗渠の上には、木屋町通から分かれて斜めに右奥へと続く、不自然な道がありました。
かつての市電木屋町線の跡のようです。

木屋町沿いの児童公園には、豊臣秀吉の命で架けられた五条大橋の橋脚が残り、「天正十七年」の刻銘を読み取ることができます。
この石橋より後の江戸時代に架け替えられた木造大橋は、小橋を伴わずに一気に鴨川と高瀬川を越える、「虹のような」大きな反り橋であったらしい。

外からは見えませんが、五条通下の暗渠内には、明治に造られた石造アーチの五条小橋も残されているようです。

五条通を越えると、おや、少し景観が変わりますね。
高瀬川沿いの並木が、古く、大きい。

橋の下部もまた、アーチ状になっています。

古木の根元には、「此附近 源融河原院址」の碑。
源融(みなもとのとおる)は、『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルであり、河原院はその邸宅。
この榎は、河原院の庭園にあった木の生き残りとも伝えられています。

高瀬川は、旧五条楽園跡の脇を抜けて南へ。
右手に見えるのは、タイル貼りのカフェー建築でしょうか。

すぐに、「高瀬川船廻し場跡」。

近くには、菊浜小学校もあったようです。
このあたりは川幅が広く、岸は砂浜のようになっており、「菊浜」とよばれていました。
菊浜には回漕店と舟繋ぎ場があり、いつも何艘かの高瀬舟が繋がれていたらしい。
ちなみに、この場所の町名は「梅湊町」になります。
浜では、梅が咲き誇っていたのでしょう。

「サウナの梅湯」前を通り、このあたりの高瀬川は南へとまっすぐに流れていきます。
ただ、これは少し西にある源融河原院の故地を徳川家光が寄進し、東本願寺の庭園である渉成園が造営されて以降の話。
高瀬川をまたいで渉成園建設が計画されたため、流路は開削からわずか30年余りで、近くにあった御土居とともに付け替えられたようです。

これは、渉成園のHPからお借りした、印月池の写真。
この大きな池は、高瀬川の旧流路を元に造られたのではないでしょうか。

現在の高瀬川は、かつてのように迂回せず、南に直進して正面橋を越えます。

近くの郵便局名に残る「米浜」の文字。
ここには、高瀬舟で運び込まれた米の取引所である米会所があったとのこと。

「七条橋」。

その西にある七条河原町の角に、診療所名として「内浜」の名前が残ります。
内浜は、ここにあった東西300m近くもある高瀬川最大の舟入。
付け替えられた御土居の内側にあったことから、内浜と呼ばれました。
陸運の動脈である竹田街道とも接続するため、周辺には材木商や薪炭商など多くの商店とその倉庫が立ち並んでいたらしい。
明治になると株式取引所までが設置され、京都の一大経済拠点となったようですが、もうその面影はありません。

木屋町通の南端まで来ると、右斜め前に続く道。
この道に沿って高瀬川の旧流路があるはずなのですが、川の姿がない。
旧流路は、かつては六条から十条までの間で、複雑に入り組んで流れていました。

現流路から離れ、旧流路跡を西へ追いかけていくと、河原町通に「高瀬川」と書かれた擬宝珠のある親柱。
でも、旧流路は暗渠となってしまったようで、橋はあれども川の姿は見えません。

河原町塩小路の少し南で、旧流路は突然復活。
二つの石臼のようなところから水が湧き出し、小さな流れとなっています。

この場所に残るのは、1907(明治40)年に建てられた旧柳原銀行。

外壁は板張りですが、銀行らしく正面には意匠を施したペディメント。
差別により融資を受けられなかった町内の皮革業者らを支えた銀行は、今も大切に保存されているようです。

貨幣を鋳造する銭座場がここに置かれたのも、高瀬川の水運との関係なのでしょう。

まもなく、奥から来た旧流路は右からの現流路と合流。

川は、JR線を越えて東九条を縦断します。

あの美しい泰山タイルを焼いていた池田泰山の製陶所は、敗戦後まではこのあたりにありました。

鴨川と交差する地点が近づくと、干上がった高瀬川が右にカーブしてゆきます。
でも、1935(昭和10)年の鴨川大洪水までは、まっすぐに進んで鴨川と交差していたらしい。

鴨川のこの場所を、流されないよう川の中に打った杭を頼りとして、高瀬舟を渡していたのでしょう。

今は、少し先で鴨川に注ぎ込みます。
まあ、水があればの話ですが。

下流から見ると、左手の小さな施設のところから、高瀬川は鴨川に流れ込むようになっています。

鴨川の対岸では、ごくわずかな流れが復活。
これが、東高瀬川となって、伏見港まで流れていくのですね。
源流から歩いてきた、細くて浅い運河である高瀬川。
上流の風情ある佇まいだけでなく、大量の物資を伏見から洛中に搬入した、京都経済の動脈としての姿が少し見えたように思います。
































































































































































































































