桜が満開だったので、京都の蹴上方面から琵琶湖疎水沿いを東へ歩いてみることにしました。
琵琶湖疎水は、着工から5年の難工事を経て1890(明治23)年に完成し、現在では近代化産業遺産に認定されている水路です。
九条山にある旧御所水道ポンプ室前には、大津から来た観光用の「びわ湖疎水船」が停泊中。
背後には、琵琶湖疎水第3トンネルの東口が見えます。
写真では良く見えませんが、トンネル上部には、初代内大臣・三条実美による「美哉山河(うるわしきかなさんが)」の扁額があります。
旧御所水道ポンプ室は、御所へ疎水の水を防火用水として送る施設。
平屋の小さな施設ですが、手の込んだ造りで、竣工は1912(明治45)年。
設計は、京都国立博物館や東京の赤坂離宮を手掛けた片山東熊です。
煉瓦造に並ぶアーチ窓に、屋根に突き出した特徴的なドーマー窓。
平屋なのに、エントランス上に豪華なバルコニーがつけられているのが面白い。
一度、小高い九条山を下りて、山科の御陵(みささぎ)方面に向かい、再び北側の高台に向かいます。
琵琶湖疎水は、山科北部の山ぎわの高台を流れています。
第3トンネルの東口。
扁額には、初代財務大臣・松方正義による「過雨看松色(かうしょうしょくをみる)」の文字。
トンネルの入口ごとに、明治政府要人の扁額がかかります。
琵琶湖疎水は、維新による東京遷都により衰退した京都を復興させるため、第3代京都府知事の北垣国道の下で進められた事業。
でも、その実は国家的事業であったことを、政府要人たちの扁額は示しているようです。
すぐ東側に、「本邦最初鐵筋混凝土槁」の石碑。
裏面には「明治三十六年七月竣工 米蘭式鐵筋混凝土橋桁 工學博士田邊朔郎書之」とありました。
これを書いた田邊朔郎は、工部大学校を卒業したばかりの23歳の若さで琵琶湖疎水の難工事を指揮した、すごい人物。
疎水の建設は、測量・設計から施工までを外国人技師の手を借りずに行った、日本初の近代的大土木事業でした。
疎水の流れをただの水運にとどめず発電に利用し、京都に市電を走らせるようになったのも、田邊の提案があったためのようです。
ということで、石碑が示す日本で最初の「鉄筋混凝土橋」がこちら。
んっ、後付けの鉄柵で守られていますが、これは言われなければ気がつきそうにない小さな橋。
橋のたもとにも、もう一つ石碑。
こちらには、「日本最初の鉄筋コンクリート橋」とありました。
疎水沿いには、桜が咲き誇ります。
川面も満開です。
しばらくすると、第2トンネルの西口。
トンネルの入口にも、一つひとつ個性があるようで、こちらは赤煉瓦に白い石の凝った装飾。
入口が、尖頭アーチ状になっています。
扁額は、「隨山到水源(やまにしたがいてすいげんにいたる)」。
ちなみに琵琶湖疎水では、そこここに大量の煉瓦が使われていますが、これらの煉瓦を焼いた工場は近くの御陵原西町にありました。
京都市営地下鉄東西線御陵駅前には、これを記念する「琵琶湖疎水煉瓦工場跡」の碑があります。
説明には、「当時わが国には、この大工事を賄う煉瓦製造能力がなく、京都府は自給の方針を立て」たと書かれています。
話はそれましたが、第2トンネルは短く、すぐに東口に行きあたります。
扁額は、「仁以山悦智為水歓(じんはやまをもってよろこび、ちはみずのためによろこぶ)」の縦読み4行で8文字。
少し右手には、趣のある建築。
1929(昭和4)年竣工の旧鶴巻鶴一邸、現在は栗原邸です。
鶴巻鶴一という楽しい名前の人物は、京都高等工芸学校、現在の京都工芸繊維大学の校長であった染色家。
設計は、同校の教授であった本野精吾。
特殊なコンクリートブロックを積み上げた壁に、段違いに並ぶ窓。
屋内にはたくさんの暖炉があるのでしょう、高さや形状の違う黒っぽい煙突が、あちらこちらに立っています。
門は閉ざされていましたが、時々、一般公開されることもあるようです。
国の登録有形文化財に登録されるなど、優れたモダニズム建築として評価されているとのことです。
本圀寺へと向かう朱塗りの橋を越えると、
右手に、コンクリートの柵が、写真では写せないほど延々と続きます。
ここの地名は、御陵(みささぎ)。
古代の中央集権国家を打ち立てる役割をはたした、天智天皇の陵墓の柵です。
御陵を過ぎると、疎水沿いの広場から、山科盆地が見渡せます。
広場のすぐ下には、東海道線。
このあたりの疎水は、東海道線と山に挟まれた高台を、大津から京都までごくわずかな傾斜を付けて流れています。
疎水の山側にある、吉祥山安祥寺。
「祥」が2回使われている、珍しい寺名。
創建は848年と古く、平安初期の嘉祥元年です。
あっ、「祥」が3回目。
これは、関係がありそうですね。
かつては、山科一帯に広大な寺領を持っていたお寺のようです。
毘沙門堂へと向かう毘沙門通あたりでは、近隣のボランティアによって菜の花が植えられており、桜と春色の共演。
こちらは、琵琶湖疎水の4つのトンネルのうち、唯一戦後に作られた諸羽トンネルの西口。
後から作られたトンネルなので、扁額はありません。
横を走るJRが拡張されるさい、危険を回避するためにバイパスとして掘られたとのこと。
もともとの疎水跡を歩いていると、「第2疎水トンネル試作物」が残されていました。
第2疎水は、流量を増やすため、第1疎水と並行するように埋立トンネルとして作られています。
諸羽トンネルの東口。
このあたりは、川幅が広く作られている四ノ宮船溜です。
大きな満開の桜を過ぎると、
一燈園の前に出ます。
一燈園とは、明治末期に西田天香が始めた、争いのない生活を実践する一つの「道」のことらしい。
倉田百三の戯曲『出家とその弟子』は、ここでの体験を元に書かれたとのこと。
こちらは、資料館の香倉院。
少し東へ行くと、藤尾橋。
煉瓦造の橋脚には、アーチ型の装飾がありました。
そして、まもなく第1トンネルの西口に至ります。
こちらの扁額は、初代内務大臣・山形有朋の揮ごう。
「廓其有容(かくとしてそれいるることあり)」と書かれています。
ここから先は、2436mもある、長い第1トンネル。
トンネルを出れば、琵琶湖はすぐそこ。
東口には、初代総理大臣・伊藤博文が書いた「気象萬千(きしょうばんせん)」の扁額が掛かります。
琵琶湖疎水沿いでは、維新後に衰退しかけた京都を立て直そうとする、明治の人々の真っ直ぐな熱意が、随所に見え隠れしていたように思います。
春の陽気に誘われて、今回も良い街歩きができました。