のら印BLOG

野良猫のように街を探索し、楽しさを発見するブログ

京都大学はレトロ建築の陳列場①・本部構内を歩く

京都の鴨川に架かる荒神橋

荒神口から洛外へ出て近江に至る志賀越道は、ここからスタートしています。

対岸に渡り、鴨川沿いの川端通を少し北へ行くと、たばこ店の角から志賀越道が北東へと伸びています。

細くて緩やかにカーブしている道が、いかにも旧街道らしい。

タバコ屋さんの軒先には、今も「でんわ でんぽう ダイヤル市外通話」の懐かしい看板。

スマホやSNSの普及など、遠い世界のことのようです。

道沿いには、「第三高等学校基督教青年会舘跡」の石柱。

旧制三高は、京都大学の前身にあたる学校ですよね。

志賀越道は、東山東一条の交差点で京都大学本部構内に突き当たり、いったん消滅。

本部構内を過ぎたところから再度復活するのは、前回見たとおりです。

でも、街道寸断の原因は幕末の尾張藩下屋敷建設にあるようで、後からできた三高や京大の責任ではありません。

交差点の北東角には、吉田本町道標が立ちます。

鉄枠で補強された痛々しい道標の南面には、「左 百まん遍ん( )」。

東面には、「右 さかもと 加らさき 白川( )」とあります。

旧街道は寸断されましたが、街道脇の道標は京都帝大の歴史学者により補修され、この場所に残されているらしい。

西面には、京都に多くの道標を建てた「沢村道(範)」の名前。

北面には「宝永六年」とあり、古い道標です。

少し東へ行くと、京都大学本部構内正門。

前身である三高のさらに前身、第三高等中学校の正門として1893(明治26)年に建造されたものです。

設計は山口半六と久留正道とのこと。

両方の門柱を撮りたかったのですが、この日はオープンキャンパスなので人出がすごい。

人があまり写りこまないように、片方だけとなりました。

正門の奥には、クスノキ越しに大学のシンボルである時計台。

設計は、建築学科の初代教授であり「関西建築界の父」と呼ばれる武田五一で、1925(大正14)年の竣工です。

時計の周りを小さな円で取り囲んだ特徴的なデザインも、当時のセセッション(分離派)的な意匠なのでしょう。

エントランスには、テラコッタの装飾が施されていました。

正門の西側には、スクラッチタイル張りの旧施設部電話拡張交換室。

壁面に取り付けられた階段の上部にある、半円形の小さな庇が面白い。

設計は、武田五一と、同じく京大に多くの建築を残した永瀬狂三です。

その北隣には、屋根にドーマー窓が見える煉瓦造の旧石油化学教室本館。

増築を重ねた赤煉瓦に、白い花崗岩のラインと、東京駅を設計した辰野金吾の建築のよう。

瓦屋根には、ドーマー窓。

玄関の庇は、銅板葺きになっています。

2階部分の増築を担当した永瀬狂三は、辰野の事務所でも働いた人なので、辰野式っぽいのかも知れません。

裏手には、1889(明治22)に竣工した旧第三高等学校物理学実験場もあります。

これが、京都大学に残る最も古い時代の建造物になるようです。

この学舎から、物理学賞の湯川・朝永、化学賞の福井・吉野と4氏のノーベル賞受賞者が輩出されたというのですから、凄い。

お隣にも、煉瓦造の旧放射学研究室。

上部には三角破風と、白い半円アーチを組み合わせたデザイン。

1916(大正5)年に、永瀬狂三と京都帝大の初代建築部長であった山本治兵衛が設計を手がけています。

時計台の北側には、ちょっと趣の異なる、大倉三郎が手掛けたモダンな法経済学部本館。

大きなコの字形の建物ですが、写真の部分は左翼部分にあたり、1933(昭和8)年に竣工しています。

クラッチタイルに覆われた壁から突き出した、上部の窓も斬新です。

こちらは、大学内では異色の尊攘堂。

もともとは、長州藩出身の品川弥ニ郎が師である吉田松陰の遺墨類を集めた文庫でしたが、品川の死後に京都帝大に寄贈されたものです。

1903(明治36)年築の建物には、正面に特徴的な切妻の庇。

縦長の窓や、屋根に据えられたドーマー窓。

「松陰」だからでしょうか、横には松が植えられていました。

その北にある、文学部陳列館。

山本治兵衛と永瀬狂三が設計した、1914(大正3)年の建築です。

上部に見えるのは、横長楕円形の窓。

古典様式のように見える破風ですが、細部には幾何学的なデザインが施され、大正期に流行したセセッションの影響がみられるようです。

昭和初期に建てられた、文学部東館。

旧工学部3号館には、大正期の煉瓦建築が部分保存されていました。

堂々たる旧土木工学教室本館。

ここも、山本治兵衛と永瀬狂三の設計で、1917(大正6)年に竣工しています。

永瀬が入ると、やはり赤煉瓦に白い帯の辰野式ですね。

裏側には、4つのアーチに支えられた階段。

一番左のアーチは、ほとんど埋もれているのが面白い。

その横には、コンクリート製のテニス用審判台が、コートもないのにポツンと屹立。

見事な超芸術トマソンです。

その東側には、旧建築学教室本館。

ああ、武田五一先生は、ここで教えていたのですね。

ちなみに、この建築も武田自身の設計で、1922(大正11)年に建てられています。

アジアっぽい香りも漂う玄関ポーチ。

当時のままに残された、「建築學教室」の赤いプレート。

壁面のタイルの張り方も、凝っています。

校舎裏には、「純粋階段」も残されていました。

昇った先には何もない無用の長物が、きちんと保存されています。

そんな遺構を面白がる精神を、京都大学の、それも旧建築学教室の裏で見る事ができ、ちょっと嬉しいですね。

 

レトロ建築の陳列場のような京都大学は、とにかく広い。

建築をめぐる構内散策は、まだまだ続きます。

 

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