小さな駅舎を出たところには、錆びついた鉄製の火の見櫓が建っています。
でも、駅改札の真ん前に屹立する火の見櫓なんて、これまで見たことがありません。
いきなり、ちょっと不思議な町に来たことを、実感させられます。
櫓の足元には、「橋本渡舟場三丁」の道標。
橋本は、桂川・宇治川・木津川の三川が合流して淀川となる地点に面していて、古代には行基によって日本三古橋の一つである山崎橋が架けられたところ。
橋本の地名は、山崎橋のたもとにある集落ということなのでしょう。
橋の流失後に、渡し舟が用いられていたようです。
道標の側面には、「湯澤山茶久蓮寺跡」。
豊臣秀吉が訪れたさい、茶を求めたのに白湯ばかり出されたので、「湯たくさん、茶くれん寺」と名付けた常徳寺がここにあったらしい。
この街の淀川沿いには、大坂と京を結んだ京街道が通っています。
京街道は、戊辰戦争時に初戦で敗れた旧幕府軍が、淀藩の裏切りで淀城に入ることもできずに逃れて来た道でもあります。
駅近くのロータリー付近は、かつて幕府の橋本陣屋があった辺り。
現在は、大規模な改修工事中です。
街道の宿場町であった橋本には、幕末の海外列強が迫る緊迫した情勢の中、幕府によって京都警固ための陣屋が築かれました。
この陣屋には、戊辰戦争で敗走する旧幕府軍が逃げ込み、態勢の立て直しを試みています。
しかし、淀川対岸の高浜砲台を守る津藩の裏切りにより、旧幕府軍は側面からの砲撃を受けてさらに敗走することに。
この付近にある「焼野」という地名。
戊辰戦争によって焼けた名残りかと思いましたが、調べてみるとヨシ焼きが盛んな地域だったことから付いた地名のようでした。
少し南には、旧幕府軍が本営とした久修園院。
そのさらに南側には、「戊辰役橋本砲臺場跡」の石柱が立つ楠葉台場跡史跡公園。
楠葉台場は、1865(慶応元)年に勝海舟の設計で築かれた、異国船から京都を守るための備えでした。
台場の南側には、大きな堀も残ります。
この辺りにあったのは、番所。
説明板の地図によると、京街道を付けかえて台場内に引込み、通行するすべての人を番所で改めています。
赤い色のところが、付けかえられた京街道の部分。
事実上、尊王攘夷派浪士たちの京都侵入を取り締まる施設だったのでしょうか。
堤防から見た、対岸の高浜砲台があった方面。
戊辰戦争時の旧幕府軍が、裏切りにより砲撃されたのは、こちらから。
そりゃ、不意に横から砲撃されたら、大混乱が起きますよね。
台場の南隣にある久親恩寺は、この戦いのさいに全焼したらしい。
その境内の片隅には、上部に仏を彫刻した仏道標が集められていました。
ちょっと、珍しい光景かも知れません。
もう営業を終えている、銭湯・橋本湯の存在感のある破風。
ここからは、明治以降に栄えた遊郭跡が続きます。
橋本は、石清水八幡宮のある男山の麓の町。
参詣後のいわゆる「精進落とし」として、昔の男たちが群れ遊んだ場所なのでしょう。
こちらは、ビューティーサロンとして使われている、2階に窓手摺りのある建物。
「水嫌地蔵」の向こうにも、それと思われる建物。
最盛期には、82軒の妓楼が建ち並んでいたとのこと。
妓楼建築らしい、外壁に組み込まれた透し彫り欄間。
通りに向けて飾られた、和調のステンドグラス。
タイルが多用されているのも特徴のひとつ。
こちらは、アール・デコ調のステンドグラス。
昭和初期の香りが漂います。
モダンな欄間に、矢筈張りのタイル。
遊郭街には、歯科もあったのですね。
でも、ずっと以前に閉業しているようで、屋根は崩れかけています。
歯科の前を左に曲がると、淀川の堤防下に「柳谷わたし場」の道標。
対岸には、長岡の柳谷観音へと通じる道があるようです。
側面には、「山さき あたご わたし場」。
渡し舟ができる以前には、この場所に、橋本の地名の元になった山崎橋が架けられていたのでしょう。
堤防から、渡し場の道標がある辺りを眺めます。
水路越しに、遊郭街を裏から。
今は、往時の喧騒が幻のように思える、静かな町です。
この町には、「万延元年」とか、
「天明七年」だとかの年号が、当たり前のように残されています。
街道から見上げると、京阪本線沿いには、大正期に竣工した橋本変電所の憂いを帯びた背面。
町のそこかしこで、刻が止まっているかのような錯覚に陥ります。
スタート地点の駅前に戻ってくると、角にも妓楼建築。
往時には、壁が赤く塗られた、鮮やかな建物だったのでしょう。
駅前食堂「やをりき」からも放たれる、この町らしいレトロな空気感。
今回は、一軒のコンビニに出合うこともない、静かで稀な街歩きとなりました。