のら印BLOG

野良猫のように街を探索し、楽しさを発見するブログ

城とよばれた山科本願寺の寺内町を歩く② 内寺内・外寺内・南殿エリア

京都市山科区には、遠く戦国の時代に、要塞化された山科本願寺がありました。

前回はその寺内町のうち、城で言うと本丸にあたる「御本寺」エリアで、当時の痕跡をたどりました。

 

norajirushi.hatenablog.com

 

今回は、その周囲にあった「内寺内(うちじない)」、「外寺内」と、蓮如の隠居所があった「南殿」エリアを歩きます。

二の丸にあたる「内寺内」エリアの北東角に、今は山科中央公園があります。

内寺内は、法主の家族や坊官の屋敷が並んでいた場所らしい。

この公園には、内寺内と外寺内を隔てた、大きな土塁がよく残っています。

土塁は、登れるように道が整備されていて、高さは7mほどもある。

土塁上の木の根の逞しさは、長い時間の経過を感じさせてくれるのに十分。

北側には、大きな堀の跡が見えます。

公園南端の狭い道を、東へ。

内寺内を守る堀の役割もあったと思われる四ノ宮川に面して、山階小学校の体育館が見えます。

木に隠れて分かりづらいですが、グラウンド側から見ると、体育館や校舎は一段高い場所に。

ここも、土塁の遺構のようです。

山階小学校前の分岐を、右へ。

ここからは、本願寺に関わる職人や商人の居住区であったと考えられている「外寺内」。

すぐに、「蓮如上人御塚道」の道標があります。

裏面には、「寛保三癸亥年」とあるので、1743年の建立。

奥に見える森が、蓮如上人の廟所になります。

衰微していた本願寺教団を大教団にした蓮如は、85歳で示寂。

開祖親鸞の90歳よりは早いですが、当時としてはかなりの御長寿ですよね。

立派な廟所は、外寺内にありました。

蓮如廟所のすぐ東には、1732(享保17)年に建立された本願寺山科別院

江戸初期に東西に分立した本願寺の、西本願寺のほうの寺院です。

当初は、現在地の少し西にあったとのこと。

西本願寺は、それぞれ山科本願寺跡地に寺院を再建しようとしましたが、江戸幕府に認められることはなく、隣接する地に別院を建てることになりました。

こちらの門から見ると、櫓のような太鼓楼が見え、まるでお城のようです。

「城」と呼ばれたかつての山科本願寺を、意識しているのでしょうか。

 

西本願寺の別院を見たので、今度は北西にある東本願寺の別院に向かいます。

こちらが、東本願寺山科別院である長福寺。

「東御坊」とも呼ばれ、西本願寺の別院とまったく同じ年に建立されているのが面白い。

東西の対抗意識が、目に見えるようですね。

灯篭には、「山科御坊」とあります。

こちらの太鼓楼も、やっぱりお城の櫓みたい。

 

ところで、東西の山科別院の間には、奇妙な遺構がありました。

真ん中に、石を積み上げた塔のようなものがあります。

こちらは石碑なのでしょうが、もともと有ったと思われる銅の碑文は失われています。

良く見ると、石塔の正面にも銅板が剝がされた跡。

裏側に回ると、銅製の由緒書が残されていました。

どうもこれは、蓮如上人像の台座だったようです。

元々は、石塔の上に大きな蓮如銅像が立っていたのですね。

調べると、戦中の金属供出により、銅像と銅板が失われたとのこと。

もう一つ、銅板がありました。

銅像作成の顧問は、上野にある西郷隆盛像の作者・髙村光雲だったらしい。

それにしても、戦後80年近く経っても、失われた姿のまま台座を残しておくとは。

銅像を奪われた側の、強い想いを感じてしまいます。

 

長福寺の少し東に、また道標。

蓮如上人南殿御舊地 是より二町」とあります。

さあ、最後に、蓮如が晩年を過ごした隠居所である南殿(なんでん)跡に向かいます。

南殿エリアは、少し離れた音羽にあるので、東の方角へ。

南殿跡に建つ光照寺がありました。

東本願寺の末寺になります。

あれ、こちらの説明板にも、蓮如が「この地で往生された」と書かれている。

西本願寺末寺の西宗寺にも、大きな「蓮如上人御往生之地」の碑がありましたよね。

同じ人の往生地が2か所もあるのですか、うーん。

こちらには、飛び出し坊やと並んで、「蓮如上人 御塚道 是より三町」の道標。

側面を見ると、「寛保二年(1742年)」のものでした。

光照寺の東側は、史跡として保存されています。

後方に見えるのは、土塁跡の森。

こちらも大きな土塁のようでした。

 

遅い昼食は、東野にある「煮干し中華そば加藤」へ。

丁寧な仕事ぶりが感じられる、端正なおいしい中華そばをいただきました。

 

暑い中、2回にわたって歩いた山科寺内町の跡。

戦国時代に「荘厳ただ仏国のごとし」と言われながら、一夜にして焼き払われた町。

土塁や堀などの遺構は残りますが、当時の街並みが残っているわけではありません。

でも、「蓮如さん」への人々の強い思いが、至る所に残る町でもありました。