京都市伏見区の東部にある、京都市営地下鉄「石田」駅前に来ました。
駅名やこの付近の地名は「いしだ」ですが、
すぐ南東にある、こちらは「いわたの杜」と呼ばれ、万葉集の歌枕にも使われている古い杜らしい。
歴史的には、「いしだ」ではなく「いわた」だったようです。
そんな石田から、公家であった日野家ゆかりの地に続く、日野道を歩きます。
日野道が、奈良街道と交差する角に、二つの石柱。
左は、「乳薬師 日野法界寺」への道標です。
側面には、「三寶院 従是北十五町」とあり、奈良街道を左に行くと醍醐寺。
右の石柱には、「親鸞聖人日𡌛誕生院」とあります。
日野道を進むと、醍醐の山並みを背景に、火の見櫓が建つのどかな日野の集落に到着。
櫓の上部には、今も半鐘が残ります。
ここの十字路を南へ。
左の角には、また石柱。
低い方が、「右 ひのやくし」とある道標。
隣には、「親鸞聖人日𡌛誕生院」。
すぐに、「ひのやくし」とある法界寺山門に到着します。
藤原北家の一族であった日野家の氏寺で、真言宗醍醐派の別格本山。
1051(永承6)年の創建です。
国宝で、檜皮葺の柔らかいラインが美しい阿弥陀堂。
鎌倉初期の承久の乱による焼失後、すぐに再建されたもののようです。
中には、やはり国宝である、定朝様の阿弥陀如来像が残ります。
阿弥陀堂の前には、蓮の華が咲く池がありました。
平安後期に末法思想が広まり、阿弥陀信仰が高まった当時の空気が伝わってきます。
法界寺のすぐ裏には、親鸞の「胞衣(えな)塚」と「産湯の井戸」。
日野家の子として法界寺に生まれた親鸞が、阿弥陀仏により頼む浄土真宗の開祖となった背景が、少し分かるような気もします。
東隣りの高台には、1828(文政11)年に西本願寺が建てた日野誕生院。
本堂。
親鸞聖人童形像。
誕生院の裏手には、日野御廟所。
親鸞の父である日野有範や、娘である覚信尼らの古い五輪塔を見たかったのですが、立入ることはできませんでした。
すぐ北側には、京都市内とは思えない、静かな山裾の集落が広がります。
そんな角に、「鴨長明 方丈石 左八百米」の新しい道標。
今回の目的地である方丈跡は、意外と近いようです。
道標のある角から、正面に見える山中を目指します。
でも、その手前右側に小さな森が。
萱尾(かやお)神社です。
創建の詳細は不明ですが、中臣鎌足により開かれたと伝わるようです。
応仁の乱で焼失し、江戸初期に再興されたとのこと。
本殿の正面には、織部灯籠。
キリシタン灯篭ではと言われることもある、独特な形状の灯籠です。
灯篭の柱には、「マリア観音」とも呼ばれる像が彫られ、その上の部分が丸く横に広がっています。
禁教の時代には十字架そのものの形にはできないので、丸く張り出す形が採られたのではと想像すると、ちょっと楽しくなってきます。
萱尾神社を後にして、竹林を抜けます。
京都市日野野外活動施設を過ぎると、
山道の入口がありました。
けっこうな山道です。
鴨長明が、山中の方丈で暮らしたのは、晩年の50代後半。
楽な道のりではなかったでしょう。
山中に道標。
「右 長明方丈石みち」とあります。
左は、供水峠への道。
大きな方丈石というか岩に到着。
方丈は、この巨岩の上にあったようです。
岩の上方にまわると、「長明方丈石」の石碑。
「ゆく川のながれは絶えずして、しかももとの水にあらず」で始まる、古典日本三大随筆の一つ『方丈記』は、ここで書かれました。
下鴨神社の摂社である河合社の禰宜(ねぎ)になれなかったことから出家し、隠遁生活を選んだ長明の、静かすぎる庵跡です。
方丈石の上は凹凸があるけれど、床下の高さを調節すれば、四畳半程度の方丈は何とか建てられそうです。
でも、『方丈記』に書かれているとおり、猿や山鳥や鹿の気配の中で、「世に遠ざかるほどを知る」場所ですよね。
方丈石の脇には、小さな「ゆく川のながれ」を見ることができます。
これは、日野の里を流れる合場川の源流。
山から下ってきた、合場川。
合場川の名前は、『平家物語』の悲話に因んでつけられたようです。
平清盛の五男である重衡は、一の谷の戦いで源氏方に捕まり、南都焼討の責を問われて奈良に近い木津川べりで斬首されています。
『平家物語』には、その直前の護送途上、日野の地に身を寄せていた妻の藤原輔子と会い、最期の別れを交わした悲しい場面が描かれています。
斬首後、重衡の遺体は輔子に引き取られ、法界寺で荼毘に付されたとのこと。
奈良街道にある合場橋。
重衡は、この街道を手前から引かれてきたようです。
輔子は重衡に会うために、街道沿いの家を借りていたと伝えられています。
「合場」は、重衡と輔子が最後に会った場所だったのですね。
ちなみに重衡は、鴨長明の2歳下の同時代人。
親鸞は、この時12歳。
日野の里は、京都の端に静かに佇む里ですが、平安末期の出来事がぎゅっと詰まった場所だったようです。