のら印BLOG

野良猫のように街を探索し、楽しさを発見するブログ

新旧淀川の分流点に残された近代化遺産・大阪毛馬

今回は、今の淀川と旧淀川(大川)が分流する地点である毛馬へ行こうと、天神橋筋に来ました。

ここは、天神橋筋の8丁目。

日本一長い商店街と言われる天神橋筋商店街のアーケードは、1丁目から6丁目まででおしまい。

8丁目まで来ると、「ふれあいの街」と書かれたゲートはありますが、商店の姿はちらほら。

通りに並ぶ照明灯には、「天神橋八丁目商店」とあるのだけれど、

と思っていると、あっけなく通りはおしまい。

ここが、天神橋筋の北端です。

その先にあるのは、「長柄小橋」。

橋ですが、下には川跡があるだけ。

ここには、かつて長柄運河が流れていたようです。

長柄小橋の北詰には、明倫観世音菩薩が祀られています。

大戦末期の大阪大空襲では、米軍の機銃掃射により、このあたりで約400人が犠牲になったとのこと。

菩薩の横には、大きな弾痕の残る橋脚の一部も、戦争遺構として残されていました。

ここから広い淀川に沿い、東の毛馬方面に向けて、堤防の上を歩きます。

淀川といっても、これは明治期に開削された新しい淀川。

河原には、大坂城再築城のさいに伏見の廃城から舟で運び出し、残念ながら川に落ちたと伝えられる、「毛馬の残念石」が見えます。

道の途中には、「日蘭交流四百周年記念広場」の石碑。

明治になって、最初に淀川改修を始めたのが、招かれたオランダ人技師デ・レーケだったことに関係づけられているようです。

毛馬は、向こうに見える新淀川から、手前に向けて旧淀川、今の大川が中之島方面に向けて分流しているところ。

そこに、1907(明治40)年に建設された、分流施設である旧毛馬第一閘門(こうもん)。

閘門とは、水位の異なる二つの水路の間に設けられ、水位を調節して船を通航させるための施設です。

大洪水を繰り返した淀川を改修するにあたり、新淀川が開削され、旧淀川には閘門が設けられました。

こちらは、上流側の閘頭部。

古い煉瓦壁にはさまれた、大きな青く重そうな給排水扉が見えます。

鋼製の重い扉は、観音開き。

扉には、たくさんのリベットが打ち込まれています。

壁穴から伸びるアームによって、開閉されたようです。

水位を調節する閘室の側壁は、花崗岩と煉瓦。

分流施設のために、1,000万枚を超える煉瓦が発注されたらしい。

引き上げ式の制水門扉。

閘室内の船を繋ぎとめておく係船環。

逆から見た閘室。

閘尾部側の給排水扉。

これは、給排水扉を開閉するために使われた物でしょうか。

短いレールと、その上を移動する小さな軌道車が残されていました。

閘尾部の近くには眼鏡橋

眼鏡とはいえ、〇と□が連なった、経済学者・成田悠輔さんの面白いメガネみたい。

この橋は、淀川改修工事で出た土砂を、海老江まで運ぶために掘られた長柄運河の入口。

明治期に掘られた長柄運河に、1914(大正3)年になって架けられています。

ただ長柄運河は、すでに長柄小橋の上から見たとおり、その役割を終えて姿を見ることはできません。

すぐ西側にあったプレート。

ここに集められている淀川旧分流施設は、近代化遺産として国の重要文化財に指定されているようです。

なかなか立派な淀川改修紀功碑。

その横にある旧毛馬基標。

石板に、「BМ.OP.15.50  4.697М」と刻まれています。

これは、明治から昭和にかけて、大阪港の建設や淀川改修工事等の高さの基準として使われていた基準標だそうです。

紀功碑の裏にある毛馬北向地蔵の前にも、残念石。

こちらは、旧毛馬洗堰

旧淀川に流れ込む水量を調節するため、第一閘門の3年後に建設されています。

後ろに見えるのは、稼働中の毛馬排水機場。

旧洗堰は、9本の堰柱と両側の橋台からなり、10の水通しを持っていましたが、現在はそのうちの3つのみが保存されています。

旧洗堰の前にも、残念石。

この辺り一帯は、残念石だらけですね。

こちらは、この淀川旧分流施設の建設を提案し、第一閘門や洗堰を設計した沖野忠雄の像。

少し東には、現在使われている毛馬閘門の閘頭部。

少し南には、閘尾部も見えます。

今、遊覧船に乗って淀川から大川(旧淀川)に入る場合には、この閘門で水位調節のうえ、八軒屋方面に向かうのでしょう。

ただ、淀川そのものを下って大阪湾に出ることは、この淀川大堰があるためできません。

今、淀川大堰の端に大きなクレーンが建ち並んでいるのは、ここに新たな閘門を造って船を通す計画があるためらしい。

予定では、もう完成しているはずなのですが、遅れているのかな。

毛馬閘門のすぐ東隣には、江戸中期の俳人与謝蕪村生誕地の碑。

蕪村は、こんな川沿いに生まれたのですね。

花崗岩の碑には、「春風や 堤長うして 家通し」の句が刻まれています。

とぼとぼと淀川沿いの堤を歩いて実家に向かう、蕪村の背中が目に浮かびます。

蕪村生誕地は、毛馬閘門までこんなにも近い。

あっ、もう淀川大堰の向こうに、陽が落ちようとしている。

自分も、長い堤をとぼとぼ歩いて、天神橋筋に戻るとしますか。

 

毛馬は、少し交通の便の悪いところではありますが、川べりに明治以降の近代化遺産が建ち並ぶ、面白い場所でした。