この太秦交差点を少し南に歩くと、ちょっと珍しい洋館に出合うことができます。
和調の出世地蔵の背後に見える、この洋館。
正面から見ると、木の柱を意図的に外に見せる、ハーフティンバー様式です。
側面から見ても、木の曲がりをうまく活かしたデザイン。
柱の表面には意図的に残された、粗い削り痕。
キャンドル型の窓に嵌めこまれた、3つのステンドグラス。
煙突の先にも、筒状の先端が3つ並んでいます。
煉瓦積みの門柱も、なかなかに美しい。
古い太秦の街の中で、ちょっと異彩を放つこの洋風建築は、旧徳力彦之助邸。
漆芸作家であり、幻の芸術と呼ばれる「金唐革(きんからかわ)」を研究し続けた徳力が、自ら設計して1937(昭和12)年に建てた住宅兼アトリエです。
現在は、息子さんが受け継ぎ、チェリデザイン工房として運営されています。
お願いしてみると、快く内部を案内してくださいました。
足を踏み入れると、外観も良いですが、内部がまたすごい。
まず、入口にある階段の手の込んだ意匠に驚かされます。
お話を伺うと、この建築には20世紀初頭に就航したイギリスの豪華客船・アドリアティック号の船材が、たくさん使用されているとのこと。
アドリアティック号は、あのタイタニック号と同じ船会社で、5年早く就航したらしい。
調べてみると、タイタニック号沈没事故の際には、生存者を乗せてイギリスに戻っています。
1934(昭和9)年に広島県尾道市で解体されていますので、この時に船材を譲り受けたのでしょう。
この暖炉も、アドリアティック号にあったものとのこと。
硝子に美しく彩色されたこの窓も、
優美なステンドグラスも、再利用されたもののようです。
部屋には、古い金唐革の作品もありました。
革に金属箔を張り、型押しして彩色する技法だそうです。
親切な案内に感謝して、退出しました。
入るときには分かりませんでしたが、この木製の門扉も、船材を活用したものだったのですね。
再び、広隆寺前に戻ります。
広隆寺は、この地域を拠点とした有力な渡来系豪族である秦氏の氏寺。
聖徳太子に強く影響を与えたとされる秦河勝が、推古朝の時代に創建しています。
聖徳太子信仰を中心とするこの寺院の中央にあるのは、太子を祀る上宮王院太子殿。
お堂の正面中央には、太子が定めた一七条憲法の冒頭にある、「以和為貴(わをもってたっとしとなす)」の扁額が掲げられています。
まわりにも、様々な扁額が掛かり、いかにも古い寺院といった感じが良いですね。
広隆寺の東隣には、大酒(おおさけ)神社がありました。
小さいながらも、京都三大奇祭の一つである広隆寺牛祭りが開催されるときには、重要な舞台となる神社です。
この神社も秦氏の氏神と考えられ、明治の神仏分離より前には、広隆寺の中にあったようです。
鳥居前にある由緒書を見て、びっくり。
祭神の筆頭は、秦の始皇帝です。
広大な中国を最初に統一したあの始皇帝を神として祀る神社など、あまり聞いたことがありません。
でも、秦氏の祖とされる弓月君は始皇帝の末裔とされているのですから、秦氏が始皇帝を祭神とするのは自然なことなのですね。
また、広隆寺楼門前に戻り、嵐電太秦広隆寺駅横の三条通を東へ進みます。
まもなく三叉路があり、三条通は右方向へ。
ここでは、かつて広隆寺への参詣道であった、左の太子道を進みます。
まもなく左手に見えてくるのが、木嶋(このしま)神社の二の鳥居。
正式名称は「木島座天照御魂神社」。
小さな石柱に「蚕神社」とありますが、通称「蚕の社」と呼ばれています。
養蚕・機織は、秦氏が日本に持ち込んだ技術の一つ。
当然、ここも秦氏ゆかりの神社です。
拝殿の前には、「文化十四年」と刻まれた、「西陣縮縮緬(ちぢみちりめん)仲間」の碑がありました。
西陣の絹織物業者にとって、ここは大切な神社だったのでしょう。
本殿の左手には、元糺(ただす)の池。
その横にある元糺の森は、下鴨神社にある糺の森と同じ、街中に残る原生林。
池の一番奥には、不思議な形状をした三柱(みはしら)鳥居がありました。
柱が三本あり、鳥居の正面も三つ。
上からみると正三角形の、珍しい鳥居です。
境内にあった説明板では、「景教(キリスト教の一派ネストル教 約一三〇〇年前に日本に伝わる)の遺物ではないか」とする説もあるように書かれていました。
ネストル教とは、公会議で異端とされ、中国など東方に広まったキリスト教ネストリウス派のことでしょう。
では、三角形の鳥居は、父なる神・子なるキリスト・聖霊が一つであると考える三位一体を表しているのでしょうか。
いや、ネストリウスは三位一体説に否定的だったから、異端とされたのですよね。
うーん、良く分かりません。
三条通まで歩くと、木島神社の一の鳥居がありました。
東を見ると、嵐電の線路が洛中に向けて続いています。