大阪の町は平地のように思えますが、その真ん中には、北の大阪城から南の住吉大社に至る南北9km、東西2kmの上町台地が伸びています。
今回は、地下鉄の四天王寺前夕陽ヶ丘駅から、上町台地の北西のへりを歩いてみます。
駅西側にある真光院の門前には、「聖徳太子御直作 六万体地蔵尊安置」の石柱。
面する谷町筋にある「六万体」という面白いの交差点の名前は、ここから来ているようです。
このあたりから、少し西の通りに入ると、生玉寺町筋に出ます。
豊臣秀吉の時代から江戸時代にかけて形成された寺町には、道の両側にたくさんの寺院が軒を連ねます。
その中に、突如奇抜なデザインのファッションホテルが割り込んだりしているのも、懐の深い大阪らしい光景なのかも知れません。
道の左側には、「源聖寺坂」の駒札。
先へ進むと、落ち着いた石畳の下り坂がありました。
ここは、上町台地のへり。
南北に走る上町断層に並行して、大きな高低差が見られます。
生玉寺町筋を北に進むと、生國魂(いくくにたま)神社に行きあたります。
生國魂神社は、『日本書紀』にもその名が記され、難波宮の造営以前からあったと考えられる、大阪を代表する古社。
大阪では、「いくたまさん」と親しく呼ばれています。
境内には、「上方落語發祥の地 米澤彦八の碑」。
説明板によると、江戸初期の生國魂神社には、太平記読み、芝能、萬歳、人形繰りなどの芸能者が蝟集していたとのこと。
その中で、米澤彦八の芝居物真似や軽口咄が人気を集め、この彦八咄が上方落語のルーツとなったようです。
俳諧師でもあった西鶴は、この境内で、一昼夜に4000句独吟達成の記録を残しています。
浄瑠璃神社などもあって、「いくたまさん」は、上方芸能とのただならぬ関わりの深さを感じさせる神社でした。
生國魂神社を北に抜けようとすると、また急坂。
この神社のあたりで、台地の標高は約22mだそうです。
この坂の呼び名は、明治初頭まで真言宗の寺院が並んでいたことから、「真言坂」。
「オレンチ」というバーに掲げられた黒板には、「生きてるだけで精一杯」。
うん、そうだよねえ。
お隣のお寺の門前には、「私は オータニさんや藤井名人にはなれないが 私の人生は私だけのものだ」。
ふむふむと、勇気づけられながら進みます。
上町台地から下ってくる地蔵坂に突き当たりますが、次の角を左折してさらに北へ。
緑色の瓦に、タイル張りの柱のちょっと目につく建物発見。
良く見ると、入口の上には「金甌(きんおう)会館」の文字。
金甌とは、金の瓶のことで、この地で発掘されたことに由来しているようです。
それにしても、「甌」に使われている「瓦」の文字が気になります。
というのも、このあたり一帯は「瓦屋町」。
江戸時代に瓦職人が集住して、大量の瓦が生産された場所です。
「金甌」とも、何らかの関係があるのかも知れません。
恐竜のいる角を越えると、向こうに商店街のアーケードが見えてきます。
アーケードに入る手前には、壁面にタイルを張った木造3階建てのレトロな筆屋さん。
もう、閉店されているようです。
横からアーケードに入りましたが、ここは空堀通に沿った空堀商店街の西端。
「空堀(からほり)」とは、かつて大坂城の南西を守った、水を入れない大きな外堀のこと。
南惣構堀とも呼ばれました。
大坂冬の陣の後、この外堀に苦戦した徳川方が、豊臣方に和議の条件として堀を埋めることを提案し、空堀は徹底して破壊しつくされたようです。
商店街の西端から、東に向けて坂を登ります。
やはり、ここも上町台地のへり。
商店街の通路ですが、結構な勾配があります。
ユニークなお好み焼き屋さんの、「〇△▢焼 冨紗屋」。
表の掲示を見ていると、あの松田優作さんが愛したお店のようです。
楽し気な「ぬのめ鮮魚店」は、この日はお休みでした。
おやっ、おしゃれな雑貨屋さんの角に、何やら古そうな石柱が傾いて立っている。
こちらがわには、丸に十の字の紋と「錦屋( ) 同( )」と書かれているようです。
側面には、「奉献 御( ) 廻( )」。
下部が埋もれていて読めません。
調べてみると、ここから南へ続く坂は、金毘羅坂と呼ばれていたらしい。
どうも、この石柱は今は残っていない金毘羅宮への道標だったよう。
向かいには植木に挟まれて、「百度石」も残されています。
側面を見ると、1788(天明8)年に建てられたもののようでした。
商店街の北側にあるカフェの横には、石畳の細い路地。
やはり商店街の北側にある、カレーがおいしい「旧ヤム邸」の角。
善安筋とよばれる道が、北に向かって大きく下って行きます。
少し進み、かわいい外観のレストラン「たまごのたまこ」の角を曲がると、
石垣が積まれた大きな高低差。
「空堀通の崖」と呼ばれている場所です。
空堀は、大坂冬の陣の後に徹底して破壊されたはずですし、位置的にももう少し南にあったはず。
石垣の一部には、丸い手水鉢も転用されています。
下水管は、今では貴重な茶色い陶器製の土管。
このあたりの高低差は、さらに大きいようです。
この辺りが、「ノバクの窪地」と呼ばれるエリア。
空堀通北側の西は松屋町筋、東は谷町筋に挟まれた長方形の広大な一帯が、大きく窪んでいます。
「ノバク」とは聞きなれない言葉ですが、漢字で書くと「野漠」。
野原の土砂漠といった感じでしょうか。
この地は、大坂の役後に徳川氏が大坂城を再建するさい、大量の瓦を焼く必要があったため、瓦土を掘った場所になります。
その後も200年以上にわたって上町台地のへりを掘り続けた結果、一帯は荒涼とした野漠になったとのこと。
そういえば、空堀通の南側一帯は、瓦を生産していた「瓦屋町」でしたよね。
「ノバクの窪地」には、今も至るところに狭い路地が残ります。
瓦土を採取した後、窪地に無数の長屋街が形成されていった名残りなのでしょう。
それらの長屋街の今は、どうなっているのだろう。
また、空堀商店街周辺は、土地の凹凸の多さが街歩きの魅力をかきたててくれる場所でした。
でも、それぞれの凹凸が、上町台地のへりであるためなのか、瓦土を掘り出したためなのか、あるいは空堀の名残りなのか、謎は残ります。
空堀商店街周辺は、また訪問したくなる、興味が尽きない場所でした。