のら印BLOG

野良猫のように街を探索し、楽しさを発見するブログ

旧浦上天主堂遺構と潜伏時代のキリシタン墓碑・長崎市

かつて鎖国が行われた時代に、唯一海外に開かれた港町であった長崎市に来ました。

ここは、言わずと知れた坂の街。

長崎駅から少し東にある石段を登ると、

丘の上に日本二十六聖人記念館があります。

西坂の丘は、戦国以来のキリスト教を警戒した豊臣秀吉が、宣教師・信徒26人を磔刑に処した場所。

彼らは、京都の一条戻橋で耳たぶを切り落とされ、長崎まで引かれてきたキリシタンでした。

その後も江戸幕府によってキリスト教が禁止され、多くの信者が棄教を迫られた一方、一部の信者は潜伏キリシタンとなっていきます。

記念館には、潜伏キリシタンが聖母子像として用いたと思われる、和風の土人形も展示されていました。

こちらは、「慶應四年」の改元前に明治新政府が掲げた高札。

「切支丹宗門」の儀は、これまで「御制禁」の通り固く相守るべきこととあります。

明治政府も、西欧列強からの猛反発を受けて1873(明治6)年に禁教を解くまで、江戸幕府と同じ政策をとり続けました。

明治初期に長崎の潜伏キリシタンたちに起きた悲劇の原因は、ここにあるようです。

記念館を出ると、東隣にはスペインのサグラダファミリアを思い出させる尖塔が二本。

この建築は、日本にガウディを紹介した今井兼次が設計し、1962(昭和37)年に竣工した聖フィリッポ西坂教会です。

壁面には、色とりどりの陶磁器が散りばめられ、美しい。

駅前から、長崎らしい路面電車に乗って、平和公園停留所に向かいます。

停留所から歩いてすぐの所に、「原子爆弾落下中心地」の碑と、殉難者名を納めた石の奉安箱。

その横には、原爆で崩落した旧浦上天主堂の遺壁が、移築されて残ります。

煉瓦の遺壁上部からは、白い天使が飛び立とうとしているのでしょうか。

近くの浦上キリシタン資料館に展示されている写真を見ると、かつての天主堂は結構デコラティブだったようです。

浦上は、潜伏キリシタンが多く暮らしていた地域。

この写真によると、幕末の開国後、外国人宣教師たちが和服を着たり髷を結ったりして潜入し、密かにミサを行っていたようです。

しかし、明治新政府はこれを許さず一村総流罪の処分を下し、3,400名にのぼる浦上のキリシタンたちが西日本各地に流されました。

世に言う、「浦上四番崩れ」です。

現在の、再建されたカトリック浦上天主堂

前には、旧天主堂の遺構が残ります。

爆風で頭部を失った聖人像。

鐘楼は、転落したままの状態で保存されています。

ここから、南東の方向に坂を登ります。

坂道では、猫が闊歩。

しばらく歩くと丘の上に、経の峰共同墓地とよばれる大きな墓苑がありました。

仏式の墓石もありますが、十字架の墓石が良く目につきます。

ここに潜伏時代のキリシタン墓碑があるようなのですが、広いうえに迷路のように入り組んでいて、なかなか見つからない。

ようやく見つけました。

屋根のような形の平たい墓石が並んでいるだけで、言われなければそれと分かりません。

横にあった説明を読んで、なるほど。

潜伏キリシタンたちは、戒名を刻む仏教式石塔を嫌い、このような戒名のない伏碑を用いたらしい。

ただ、「形変り候墓石」として長崎代官の取り調べを三度受け、取り壊しを命ぜられています。

今に残るのは、命令されても従わなかったということでしょう。

近くには、また猫さん。

その前には、大きな自然石が並んでいます。

「形変り候墓石」を咎められて以降も、彼らは仏教式石塔を建てず、野石を伏せて墓碑とするようになったとのこと。

ということは、これらも潜伏キリシタンの墓碑なのでしょうか。

墓苑のある丘を下ると、原爆で傾いた旧長崎医科大学の門柱がありました。

大学の横には、古い石畳。

石畳には、古いマンホール蓋もありました。

真ん中の五芒星は、長崎市の市章なのでしょう。

あっ、上からハチワレくんが覗いています。

本当に長崎は、坂と猫の街ですね。

日も暮れ始めたので、海鮮丼専門店さかな屋へ。

注文したのは、SAKANAYAトルコライス

いたるところでトルコライスを食べさせる長崎では、海鮮丼さえその姿を変えるようです。

新鮮なアジフライと、長崎名物ハトシもついていました。

日没後は、定番の夜景を楽しみに稲佐山へ。

真ん中に海を取り込んだ美しい夜景は、さすが日本三大夜景の一つ。

あっ、今は「世界新三大夜景」と呼ぶのでしたね。