大阪で、古い時代の面影を最も残しているのではと思われる町に来ました。
今回は、その四天王寺界隈を巡ります。
あっ、来年の大阪万博に備え、駅前の舗石を切り取ってミャクミャクマンホールに交換しましたね。
駅前を通る旧熊野街道。
電柱の陰の飛び出し坊やは、聖徳太子ですよ。
こちらは、「岩崎太子堂薬局」。
大峰山の開祖である役行者が製法を伝えたと言われ、胃腸に効くとても苦い生薬の陀羅尼助丸を扱っています。
袖うだつの上がる、釣鐘まんじゅうの「総本家 釣鐘屋」。
2階には、寺院のような火灯窓が並びます。
庇の上には、銅製の釣鐘まで。
1900(明治33)年創業のこのお店では、同じころ四天王寺につるされた世界最大の釣鐘を、名物としたようです。
(総本家釣鐘屋HPより)
ただ、この鐘は、大戦中の金属回収令により供出され、今はありません。
サイズは世界最大ではありませんが、懐かしい味の釣鐘をいただきました。
旧熊野街道が途切れるあたりから、南東に続く道へ。
四天王寺の飛び地にある、庚申堂に行きあたります。
針中野で歩いた庚申街道は、ここへの参詣道だったのですね。
山門前の石碑には、「本邦最初 庚申尊」。
その下の文字は塗りつぶされていて、訳ありなようで気になります。
秘仏とされている本尊・青面金剛童子は、701(大宝元)年に起源があると伝わるそうで、これは古そう。
手水舎の水盤にも大きく「庚申堂」。
1768(明和5)年に奉納されたようです。
本堂などは大阪大空襲で焼かれていますので、この水盤も戦火をくぐっているのでしょう。
庚申堂を出た南側の角には、いかにも古くから続いていそうな井戸。
街中ですが、井戸からは、こんこんと水が流れ出しています。
「谷の清水」と呼ばれる名水らしく、横には清水井戸地蔵尊が祀られていました。
この井戸のある窪地は、8世紀に和気清麻呂が23万人を動員して完成させようとして頓挫した、河内川開削工事の跡と考えられているようです。
竹本義太夫といえば、近松門左衛門が座付作者となった浄瑠璃の竹本座を始めた人物。
どこかなと墓地の中を探すと、ありました。
でも、墓石が妙に新しい。
代々の墓石が傷んだため、10年程前に新しく建て直したようです。
さらに北へ進むと、見えてきました。
ビルの向こうに、四天王寺の南大門。
その真後ろには、五重塔も見えます。
南大門の前には、「日本佛法最初四天王寺」の大きな石碑。
建立されたのは、年号がまだなかった593年。
聖徳太子による建立で、蘇我馬子の飛鳥寺とともに、本格的な日本の仏教寺院としては最古のものだそうです。
南大門をくぐると、まず中門、続いて五重塔が、きれいに一列に並びます。
境内の案内図を見ると、このとおり。
金堂も講堂も一列に並び、それを回廊で囲んでいます。
これが、「四天王寺式伽藍配置」とよばれる、日本で最も古い建築様式らしい。
南大門から入ると、まずは熊野権現礼拝石がありました。
すぐそばを通る旧熊野街道は、天満橋近くの渡辺津から熊野三山に詣でる古い街道。
昔の人たちは、この場所で、熊野までの道中安全を祈ったのでしょう。
左右に仁王像が立つ中門は、錣(しころ)屋根とよばれる、二段構えの面白い構造です。
この日の境内では、「青空大古本祭」。
掘り出し物がありそうでしたが、重くなるので購入できませんでした。
四天王寺といえば、亀の池。
もっと晴れている日なら、山盛り亀さんの甲羅干しが見られそうです。
亀の池に架かる、日本三舞台の一つ石舞台。
石舞台から来た方角を振り返ると、両端に鴟尾のついた錣屋根の講堂のど真ん中に、五重塔の相輪が見えます。
やっぱり、整然と並んでいますね。
江戸初期に建立された、重要文化財の六時堂は、現在改修中でみることができません。
そのほとんどが室戸台風や大阪大空襲によって失われた四天王寺ですが、この六時堂や本坊は生き残ったとのこと。
本坊の前には、「下馬」の石柱が残ります。
境内北端には、日本における活版印刷の先駆者・本木昌造の像が立っていました。
まわりにビルがなかった頃は、良く目立ったことでしょう。
面白い形をした、融通地蔵の香炉。
香炉の上部には、「信仰は人の道から先に」の透かし彫り。
そうですよねえ。
人を後回しにする信仰って困ったものですよね、と思いながら四天王寺を後にしました。
お腹もすいてきたので、近くの「マルミヤ食堂」へ。
タイル張りの外観と、たくさん並んだ値段表。
かなり良い感じの大衆食堂ですね。
内観も期待通り。
定食には、いろいろ小鉢も付いて、美味しくいただきました。
食堂もまた、昔ながらに落ち着いている四天王寺界隈。
はるか飛鳥の時代から昭和に至るまで、さまざまな時代のレトロ感が随所に残る、魅力的な街でした。