のら印BLOG

野良猫のように街を探索し、楽しさを発見するブログ

忘れられた首都・伏見城の遺構をたどる①

京都にある伏見の町です。

あちこちに酒蔵が並んでいます。

伏見の町は、現在では京都市伏見区となっていますが、近世においては豊臣秀吉によって整備された京都の南隣にある城下町でした。

伏見の城では、豊臣秀吉が1591(文禄元)年から没する1598(慶長3)年まで、ここで全国を統治しています。

また見落とされがちですが、秀吉のあとに権力を握った徳川家康もこの城で将軍宣下を行い、1607(慶長12)年に駿府城に移るまでこの城を居城としました。

明らかにこの期間、伏見は日本の政治首都だったわけですが、そのことは多くの場合忘れ去られています。

これには、当時の伏見城天守や櫓はもちろん、そのままの姿で残る石垣すらないことも関係しているのかも知れません。

そこで、今回は、伏見城の遺構をたどってみることにしました。

 

京阪宇治線観月橋駅です。

伏見城は、宇治川を見下ろす位置にあり、観月橋は対岸の向島とを結ぶ橋です。

豊臣秀吉が、豊後国の大名・大友氏に架けさせたため、もともとは「豊後橋」とよばれていました。

駅のすぐ脇に、道標があります。

正面には「☜ きやうかいだう」。

側面には「☞ やまとかいだう」。

この場所が、大坂と京都をむすぶ京街道と、京都から奈良に至る大和街道がであう交通の要所であったことがわかります。

現在の観月橋

上には高架橋が架かっています。

対岸に見えるのは向島

向島側の観月橋南詰には、豊後橋址の表示。

少し南へ行くと向島城本丸址も。

向島城は、豊臣秀吉が築いた伏見城の支城で、徳川家康も居城としていました。

向島側から見た伏見城があったあたりです。

中央に見える森が、指月の丘。

初期の指月伏見城がありました。

右端の少し後方に見える山が、木幡山。

豊臣秀吉は、慶長伏見地震で指月城天守が崩落したあと、この山頂に木幡山伏見城を築いています。

また、この秀吉の城が関ヶ原の戦いの前哨戦で焼失したあとには、徳川家康が同じ場所に城を再建しています。

その後の1619(元和5)年に、一国一城令の主旨をもとに廃城となりました。

 

初期の指月伏見城と木幡山伏見城の位置関係は、古地図で見るとこうなります。

地震のあと、伏見城は豊後橋の近くから少し奥の高台に移転し、より大きく堅固なものになっているのがわかります。

 

まずは、指月伏見城の痕跡をたどってみましょう。

観月橋の高架下には、指月伏見城の石垣の残石が、「城外之庭」と名づけられて置かれています。

この東側が、指月の丘。

現在は、丘の上に団地が立ち並んでいます。

これは、指月伏見城の南端部分と考えられる泰長老公園から、団地を見上げたところ。

団地の一画にあるマンション前には、近年の発掘で出土した指月伏見城の石垣。

この発掘により、「幻の城」といわれてきた指月伏見城の実在が、確認されています。

大小の自然石を組み合わせた穴太積(あのうづみ)のようです。

 

指月の丘の東側には、指月伏見城に物資を運び込むための御舟入の跡があります。

左側の森が指月の丘の東端。

このあたりだけが低地になっています。

宇治川から大量の物資が、この舟入を使って城内に運びこまれたのでしょう。

 

つづいて、慶長伏見地震後に築かれた木幡山伏見城の遺構をたどります。

木幡山伏見城の大手門から続いていたと考えられる、現在の大手筋。

右側に見えるのは、御香宮神社。

左手の赤い鳥居の奥には、大手筋商店街のアーケードが続きます。

御香宮の表門。

伏見城大手門の札がかかっています。

上部の蟇股(かえるまた)には、精巧な彫刻がほどこされているようです。

現在は神社の門ですが、屋根の上にはしゃちほこ。

廃城後に移築された伏見城の遺構であることを物語っています。

御香宮内には、伏見城の残石も残ります。

御香宮の西隣にある日本聖公会桃山キリスト教会。

塀の下部に使われている石も、伏見城の残石なのかもしれません。

ちなみに、この純和風の教会建築は、1937(昭和12)年の竣工です。

こちらは、もう少し西の瀬戸物町にある源空寺の山門。

二層構造の珍しい山門も、伏見城の遺構です。

源空寺の案内板の後ろにも、ごろんと残石が。

 

大手筋を、木幡山伏見城に向かって進みます。

途中からは、明治天皇陵の参道となります。

少し進むと、桓武天皇陵への参道と交差します。

このあたりが、木幡山伏見城の大手門あたりではないでしょうか。

右手の森の部分は、秀吉に取り立てられた石田三成の治部少丸があったあたり。

治部少とは、治部少輔とよばれた石田三成のことです。

少し北側には、治部池とよばれる内堀の跡が、森の中に残っています。

本丸跡への道脇には、クサビで割ったあとが残る大きな残石も。

木幡山の山頂に、明治天皇陵があります。

木幡山伏見城の本丸があった場所は、このあたりと思われます。

本丸跡付近からは、宇治川をはさんで向島、宇治方面が一望。

少し東の道を下ると、昭憲皇太后陵。

左手の森が本丸跡、右側の森が名護屋丸あたりではないでしょうか。

この山のふもと付近には、木幡山伏見城の御舟入址があります。

JR奈良線の複線化工事にともない、下部がコンクリートで埋められてしまいました。

少し引いて御舟入址を見てみます。

右手の森が学問所、左手の森が御茶山があったあたりと思われます。

舟入址近くの旧道には、秀吉時代から続いていそうな町家が残ります。

すぐ近くの桃山東小学校には、発掘調査で出土した木幡山伏見城の石垣が復元されています。

城の北側にある北堀公園。

石垣は残っていませんが、大きな堀であったことがわかります。

公園内には、大きな石がみられます。

北堀公園の北東には、秀吉が伏見城の鬼門除けとして、一時的に御香宮を移したあとがあります。

御香宮とよばれています。

ここにも大きな残石が、打ち捨てられていました。

 

今回は、指月城と木幡山城という二つの伏見城の遺構をたどりました。

次回は、伏見城の城下町を見ていきたいと思います。