京都に、白川という川があります。
比叡山麓から生じ、東山近くを北から南へと向かう、ささやかな流れです。
下流のこの風景をみれば、ドラマや映画で良く使われるあの川かと、思い出していただけるかも知れません。
この川は、その名のとおり、川底の白さが特徴の浅い川です。
今回は、上流域にある北白川付近から、白川の流れをたどってみます。
左京区の北白川別当から御影通を東に進むと、南北に走る志賀越道に突きあたります。
T字路の北西角にある道標には、「右 阪本道」とあります。
少し東に入ると、北白川宮智成親王墓。
その向かいにある路傍の地蔵の横を、狭い小川が流れています。
これが白川です。
川底はコンクリートですが、きれいに石を敷きつめた箇所も。
流れは早いのですが、良く見ると、すでに白い砂が薄く積もっているところもあります。
北白川とよばれるこの地域は、大正頃までは、京都を代表する名石の産地でした。
特産品である白川石は、上質な黒雲母花崗岩で、白色中粒の緻密な石材。
これが風化した白く美しい砂が、広く庭園などに用いられてきた白川砂です。
このあたりには、破風の下に「水」と書かれた古い家屋も残ります。
民家の角には、何本もの車除けの石柱。
風情のある町家の前には、
花器として用いられているユニークな手水鉢?も。
石材が目につくこの志賀越道沿いには、最盛期には200人以上の石工がいたと言われています。
志賀越道に面して、北白川天神宮がありました。
門前には石橋。
1894(明治27)年にかけられた、美しい萬世橋です。
欄干の柱には、梅花の形に彫った石材が用いられています。
北白川石工の、技術の高さが示されているのでしょうか。
菊花状に彫られた柱頭。
下には、南へと流れていく白川。
近くには、たくさんの灯篭や石塔のある旧家も。
今も残っている、珍しい「国威宣揚」の石柱。
戦争中の、1935(昭和15)年に立てられたようです。
北白川大神宮の秋祭りに用いる、白川黒鉾も立てられていました。
おじさんが、後ろで太鼓をたたいています。
志賀越道から離れ、白川に沿って南へ下ります。
今出川通と交差する地点です。
南北に流れる白川が、東西に流れる琵琶湖疎水と交差する地点です。
どうやって川が十字に交差しているのか、とても不思議。
でも、白川を見ているかぎり、琵琶湖疎水の流れは見えません。
東側から見ると、確かにすぐ手前まで疎水はあります。
あっ、疎水の水は丸い管の中に吸い込まれています。
今出川通の南側から確認すると、わかりました。
疎水の水は、橋の横にある2本のパイプを通って、白川を跨いているようです。
「白沙」=白川の白砂ですね。
東を望むと、大文字山。
麓には銀閣寺があり、その庭園として砂の庭・銀沙灘(ぎんしゃだん)があります。
やはり、「銀沙」=白川砂ですよね。
今出川通を過ぎると、白川は蛇行しながら南へ。
馬場橋で、一度広い白川通を越えます。
かなり白砂が積もってきています。
真如堂橋の下では、さらに堆積が見られます。
宮の前橋で、ふたたび白川通の東へ。
若王子橋で、みたび白川通を越えて、西へ。
白川は、白川通を縫うように流れています。
このあたりは、白河もしくは岡崎とよばれる地域になります。
白川の東側に、突然きらびやかな古い門。
豊臣秀吉の伏見城から移築された、不明門(あけずのもん)です。
このあたりで、白川は西へカーブし、京都市動物園の下へと潜ります。
左後ろに見える建物が、動物園の東エントランス。
白川は、動物園の下をくぐり抜けました。
ここで、琵琶湖疎水の南禅寺船溜(ふなだまり)に合流。
後方に、白川の源流がある比叡山が見えます。
堆積した白川砂の上では、カワウたちの小さな集会も。
平安神宮大鳥居前の赤い慶流橋あたりまで、白川と疎水との合流は続きます。
この付近は、見どころの多いエリア。
山縣有朋の別荘であった無鄰菴。
1933(昭和8)年竣工の京都市美術館。
1926(昭和元)年竣工で、やはり武田五一設計の藤井有鄰館。
慶流橋を越えたところで、白川は西へ向かう疎水と分流し、南へと流れを変えます。
分流してすぐの地点に、面白い碑がありました。
「白川児童プール開設十五周年」とあります。
1973(昭和48)年に立てられていますから、1958(昭和33)年にプールが設けられたようです。
川をよく見ると、手前と奥の方とに、コンクリートでできた板をはめ込む堰のようなものが見えます。
今の感覚ではちょっと思いつかないと思いますが、この2か所で水を堰き止め、子ども用のプールとしたのでしょうね。
少し南へ行くと、白川の水を利用した大きな水車で麦を精白していた、竹中精麦所の跡。
水車稲荷の横を、白川はさらに南へ。
三条通を越えると、「三条通白川橋」と彫られた古い道標に行きあたります。
延宝六(1678)年とありますから、京都に現存する最古の道標のようです。
河畔にあるのは、和菓子の餅寅さん。
その手前の狭い道を東に入ると、
山崎の戦いで秀吉に敗れた明智光秀の首塚が、ひっそりと佇んでいました。
光秀の首塚は他の地にもありますが、ここは光秀が晒された粟田口刑場からほど近く、リアリティがあるように思います。
塚を管理されている餅寅さんでは、明智の桔梗紋がはいった、光秀饅頭が売られていました。
このあと白川は、知恩院の古門前で石橋をくぐり、
西に方角をかえて、外国人観光客でにぎわう祇園新橋あたりを通り、
川端通の下に流れ込みます。
そして、ついに鴨川に合流しました。
白川の流れは、ここでゴールです。
このあたりからは、1926(大正15)年竣工のレストラン菊水のビルや、
同じ年にできた、ヴォーリズ設計の東華菜館を眺めることができました。
白川という小さな川をたどるだけで、小さな旅になりました。
かつて、石工たちの集落であった北白川。
川沿いにいくつも架かる、白川石の橋。
あちらこちらに堆積する白川砂。
明治に開削された琵琶湖疎水との共存。
白川を活用したプールや精麦所。
また、いろいろな発見のある街歩きができました。