のら印BLOG

野良猫のように街を探索し、楽しさを発見するブログ

忘れられた首都・伏見城の遺構をたどる②

前回は、豊臣秀吉徳川家康の時代に政治首都であった京都伏見の町で、伏見城の遺構をたどりました。

今回は、その城下町を見てみます。

 

木幡山伏見城の大手門から西へつづく大手筋。

そこにある大手筋商店街のアーケード内から、城の方面を望みます。

城の方面から商店街にかけて、道が下ってきています。

商店街東口を出てすぐのところには、桃山断層が南北に走っています。

本来は、断層による段差があったと思われるのですが、道は平らにならされています。

豊臣秀吉による土木工事のなせる業なのでしょうか。

 

当然のことなのでしょうが、桃山断層より東側の城に近い高台には、大名屋敷が並びました。

今でも、屋敷を構えた大名の名前が、あちらこちらに町名として残っているのが面白い。

桃山長岡越中東町。

松平筑前

桃山町三河

これは、徳川家康上屋敷があったあたりです。

伊達政宗の屋敷があったあたりは、桃山町正宗。

この町内には、伊達政宗の屋敷跡が残っています。

黄檗宗の海宝寺。

境内には、仙台市が建てた「伊達政宗の伏見屋敷」の案内板。

伊達政宗手植えの木と伝えられる木斛(もっこく)の古木。

海宝寺の前の通りは、今でも伊達街道とよばれています。

伏見城と京都を結ぶ、最も重要な街道だったようです。

 

少し西へ行くと曹洞宗の栄春寺があります。

伏見城の遺構といわれる総門。

伏見城の惣構えとよばれる土塁が残っています。

 

大名屋敷が並ぶ高台に対して、桃山断層から西の低地では、町家と大名屋敷が混在していたようです。

大手筋商店街東口をはいってすぐのところに、「此付近伏見銀座跡」の石碑。

徳川家康が、江戸や大坂よりも早く、最初に銀座をおいた場所です。

「銀座」は、町名としても残っています。

 

大手筋商店街の西口。

東西に続く大手筋商店街から、南へ直角に納屋町商店街が分かれています。

納屋町の歴史は古く、伏見城築城時から続いています。

 

納屋町商店街を南へ進むと、濠川(ほりかわ)があります。

濠川は、築城時に開削された、伏見城の外堀にあたる運河です。

京橋と並び伏見港の中心であった蓬莱橋付近。

蓬莱橋から京橋を望みます。

このあたりは伏見港とよばれ、問屋、宿屋、酒蔵などが立ち並び、大坂へ向かう三十石船などでにぎわいました。

現在も、観光用に十石舟が運航しています。

近くには、当時の雰囲気を残す、船宿であった寺田屋

幕末におきた薩摩藩の内紛である寺田屋事件や、坂本龍馬がお龍さんの機転によって襲撃を逃れた場所として知られています。

秀吉が茶会で用いた紅羊羹の味をうけつぐ駿河屋本店。

酒蔵も並びます。

月桂冠大倉記念館の裏手です。

珍しいところでは、イエズス会伏見教会の跡も。

キリシタン大名で、のちに棄教せずにマニラに追放された高山右近の屋敷跡でもあります。

古地図では、高山右近の屋敷が、町家に囲まれるようにあったことがわかります。

 

2回にわたって、伏見城の遺構をたどりました。

世の中が変わる激動期に、あわただしい大土木工事によって作られた政治首都・伏見。

舟による物流の要所であった伏見港。

現在でこそ京都市伏見区となっていますが、京都の町とは異なった成り立ちをもつ、独自な町の容貌を伏見の町に見たように思います。