京都市の東部を流れる、美しい鴨川。
前回は、この川を七条大橋から四条大橋までさかのぼり、橋やレトロな建築を眺めました。
今回は、その続きとして、三条大橋から出町橋までを見ていきます。
三条大橋を、南から見ました。
三条大橋は、かつて江戸の日本橋を起点とする東海道の終点でした。
このため、鴨川に数ある橋の中で、五条大橋とともに幕府直轄の公儀橋でもありました。
今も、ヒノキの欄干が使用され、青銅の擬宝珠(ぎぼし)が残ります。
橋のたもとには、『東海道中膝栗毛』の主人公、弥次さん喜多さんの像が立っていたりします。
橋の西詰を少し下がったところに、外壁全体がタイルで覆われ、八角形や六角形の窓がある、目立つ建築があります。
1927(昭和2)年竣工の、先斗町歌舞練場(ぽんとちょうかぶれんじょう)。
京都に5つ残る、花街の劇場のひとつです。
設計は、大阪松竹座や弥栄会館も手掛けた木村得三郎。
全面に細い筋をつけたスクラッチタイルの間には、白い石やテラコッタの装飾を配置。
この建築は、美しい泰山タイルを多用していることで知られています。
泰山タイルは、大正から昭和にかけて、京都の泰山製陶所で作られた装飾タイルです。
やはり、タイルで覆われた西側の壁面。
なまこ壁風の腰壁には、交互に花模様と布目のタイル。
これも、泰山タイルなのでしょう。
中国の舞楽面をかたどった、面白い鬼瓦もありました。
御池大橋を過ぎ、二条大橋にさしかかります。
西詰に、和風建築が見えます。
表側にまわると、角倉了以別邸跡の石碑と、高瀬川源流庭苑の説明版。
角倉了以は、江戸初期に富士川や天竜川、保津川などとともに、高瀬川を開削した人物。
現在、ここは「がんこ高瀬川二条苑」として利用されています。
すぐ向かいにあるのが、高瀬川の起点である一之船入。
角倉了以別邸跡から引き込まれた鴨川の水は、ここから木屋町沿いに南へ流れていきます。
南棟は、1888(明治21)年に建てられています。
白い窓の上には、きれいな花のステンドグラスがはめ込まれています。
明治の早い時期の建築らしい、和洋折衷が見られました。
少し北へ行くと、夷川の飛び石があります。
この場所には、かつては夷川橋が架かっていましたが、1935(昭和10)年の京都大洪水で流失しています。
その後、架け替えらえることはなく、今は飛び石にかたちを変えているのでしょう。
飛び石を渡った西側に、学校が見えます。
今年の3月まで、京都市立銅駝美術工芸高等学校の校舎だった建物です。
1930年代に、銅駝尋常小学校の校舎として建てられているようです。
当時の京都市の小学校は、市ではなく学区が運営していたため、区債や積立金、学区民の寄付によって建てられたというのですから、すごいですね。
校舎に隣接する銅駝会館には、道路に面して「銅駝水(どうだすい)」がありました。
防火用とありますが、協力金を箱に入れると、誰でも自由に汲めるおいしい地下水のようです。
かつては小学校を自分たちで作り、運営していた地域の力が、今も感じられます。
次に見えるのは、丸太町橋。
橋のたもとには、旧京都中央電話局上分局があります。
1923(大正12)年に竣工した、「逓信省の建築家」・吉田鉄郎設計のモダニズム建築です。
派手ではないですが、個性きわだつ塔屋のデザイン。
鴨川に面した東面。
丸太町通に面した北面。
現在は、スーパーとスポーツクラブが入っています。
西側から見ました。
様式にとらわれない、自在さが印象的です。
丸太町橋の東詰から見ると、鴨川をはさんで、昔ながらの地蔵堂とモダニズム建築の対比がおもしろい。
和と洋が混在する、京都の町らしさでしょうか。
旧京都中央電話局上分局の角には、「女紅場址(にょこうばあと)」の石碑があります。
1872(明治5)年に開設された「新英学校及び女紅場」は、日本初の公立女学校でした。
京都府立京都第一高等女学校をへて、現在は京都府立鴨沂高等学校となっています。
丸太町橋を過ぎると、見るからに古い茅葺の家屋がありました。
江戸後期の儒学者・頼山陽の書斎兼茶室であった、「山紫水明処」です。
頼(らい)は、『日本外史』を著し、尊王攘夷派の志士たちに大きな影響をあたえた人物。
西側の入口には、石碑が立っていました。
近くにある清荒神の名がついた荒神口は、「京の七口」の一つです。
後方に、大きな京都府立医科大学が見えます。
こちらは、荒神の飛び石。
亀の形をした石もあります。
京都府立医科大学に残る、1929(昭和4)年に建てられた旧附属図書館。
現在は、大学の本部棟として使用されています。
設計は、京都府営繕課の技師、十河安雄。
現在文化庁の庁舎として使われている、旧京都府警察本部本館なども手掛けています。
開口部や窓にも尖頭アーチが使われた、ネオ・ゴシック様式。
壁面は、スクラッチタイルで覆われ、なかなかの重厚感があります。
エントランスも、ドア上部の細やかな装飾など、細部まで手が込んでいました。
府立医科大学の北隣では、不思議な建築を発見。
土塀で囲まれた古い和風の門には、「聖トマス学院」の表札。
少しだけ中をのぞかせていただくと、外観とはまったく異なる魅力的な洋館が、ちらっと見えるではありませんか。
調べてみると、元は実業家・山口玄洞の旧邸とのこと。
洋館は、「関西建築界の父」とよばれる武田五一が設計しているようでした。
そろそろ出町が近づいてきました。
加茂大橋です。
近年、改修はされていますが、この橋も武田五一が設計しています。
欄干に据えられた石灯籠が、醸し出す風情。
橋の上から、鴨川の下流を望みます。
加茂大橋を越えると、左に賀茂川の出町橋、右に高野川の河合橋。
2本の河川が合流して、ここから鴨川となっています。
合流地点の「鴨川デルタ」には、出町の飛び石がありました。
鴨川デルタの後方には、下賀茂神社境内の「糺(ただす)の森」があります。
都市部にありますが、縄文時代から続く貴重な原生林です。
森の入口近くには、旧三井家下鴨別邸が保存されています。
主屋は、1880(明治13)年建築で、元は木屋町にあったものが移築されています。
南側の庭園から見ると、三階建てですが、
西側からみると4階建て。
なかなか面白く、美しい構造です。
4階には、全方向を見渡せる望楼がありました。
2回にわたって、鴨や鷺がたくさん集う鴨川を遡行してきました。
そこでは、多くの橋とともに、茅葺の古い日本家屋からモダンな洋風建築まで、和洋とりまぜた美しい建築を見ることができました。
今回は、「一本の川と紐づけて、建築を見る」という、ちょっと新しい試みでした。
また、機会があれば、試してみたいと思います。