のら印BLOG

野良猫のように街を探索し、楽しさを発見するブログ

鴨川を遡行して眺める橋と建築①・七条から四条へ

京都盆地の東部を、南へと流れる鴨川。

今回は、風光明媚なこの川をさかのぼりながら、橋やレトロな建築を見ていこうと思います。

七条大橋からスタートします。

明治末から開始された京都市三大事業の一環として架け替えが進められ、1913(大正2)年に開通しています。

鉄筋コンクリートのアーチ橋で、鴨川にたくさん架かる橋のうち、唯一明治期の意匠を残している最古の橋です。

東詰の親柱は新しいものですが、西詰には竣工当初のものが残ります。

高欄のデザインは、矢車模様。

これは、1987(昭和62)年に改修されたものですが、ほど近い三十三間堂の通し矢がイメージされているようです。

橋の北側には、イギリス積みの煉瓦遺構も残ります。

何に使われていたものでしょうか。

 

鴨川では、水鳥たちが羽休め。

その向こうに見えるのが、正面通に架かる正面橋。

「正面」とは、豊臣秀吉が建てた巨大な方広寺大仏殿の正面にあたる、ということです。

この橋を後方の東山に向かって進むと、かつては大仏殿がありました。

橋の西詰に、梵鐘が無造作に置かれているのが面白い。

誰が、何のために置いたのかは分かりません。

西詰のすぐそばには、「世界の任天堂」の旧本社があります。

任天堂は、この地で1889(明治22)年に花札の製造を始め、日本で最初にトランプも製造しています。

現在は、丸福楼という名のホテル。

この建築は、1930(昭和5)年の竣工です。

エントランス横の彫刻。

玄関ホールは、大理石とタイルが美しく用いられた、アール・デコ調の空間でした。

 

正面橋東詰を少し北へ行くと、「元和キリシタン殉教の地」の石碑があります。

1619(元和5)年に、徳川2代将軍秀忠のもとで、52名のキリシタンがこの地で処刑されたようです。

少し北へ行くと、五条大橋

三条大橋とともに、江戸時代には幕府が管理した公儀橋でした。

橋から北を望むと、後方に見えるのは比叡山

現在の橋は、1959(昭和34)年に架け替えられたものですが、今も青銅の擬宝珠(ぎぼし)が残されています。

明治や昭和の擬宝珠もありますが、古いものには「正保二年(1645年)」と、江戸初期の年号が刻まれています。

五条大橋をすぎると、大きな瓦屋根の中央に破風のある、和風建築が目に入ります。

料理旅館の「鶴清(つるせ)」さん。

ちなみに、手前の川岸に立っているのは、鶴ではなく鷺です。

1932(昭和7)年に建てられた、総檜造の木造三階建。

京都の夏の風物詩である「床」は、200名収容できるそうです。

表にまわると、玄関には唐破風。

玄関は木屋町通に面し、通りに沿って高瀬川がささやかに流れています。

鴨川沿いの建築は、高瀬川沿いの玄関から入り、中から裏の広い鴨川を眺めるという趣向になっています。

 

次の橋は、松原橋

大型車が通れない狭いコンクリートの橋ですが、本来はこの橋が五条橋でした。

この橋を東に進むと、あの世とこの世の境とされた六道の辻を越え、清水寺と巨大な葬送地であった鳥辺野へ続きます。

この橋が松原橋とよばれるようになったのは、豊臣秀吉方広寺大仏殿の造営にあたり、橋を今の五条通に架け替えて以降のことです。

親柱横の説明版には、「伝説に謳われる牛若丸と弁慶の決闘、『京の五条の橋の上』は、当地のことを指す」と書かれています。

松原橋の北側には、五層でしゃれた塔屋を備えた大きな和風建築。

鮒鶴京都鴨川リゾート、元の料理旅館「鮒鶴」さんです。

本館は1925(大正14)年に完成、五層の新館は1934(昭和9)年に増築されたようです。

高瀬川に面した表側からも、塔屋が見えます。

旧エントランスも美しい。

 

続いては、団栗橋(どんぐりばし)。

かわいらしい名前は、かつて橋のたもとに大きなドングリの木があったことからきているようです。

団栗橋の下には、丸いコンクリートの橋脚の跡が残ります。

1935(昭和10)年の京都大洪水によって流失した、先代の橋のものでしょう。

四条大橋が、見えてきました。

現在でこそ多くの人や車が行きかう橋ですが、近世以前には官橋である三条大橋五条大橋とくらべ、小さな民橋だったようです。

西詰に、W.M.ヴォーリズが設計した旧西洋料理店・矢尾政、現在の「東華菜館」が見えます。

1926(大正15)年に竣工した、スパニッシュ・バロック様式の建築。

屋上に、美しい塔屋と煙突が見えます。

壁面に散りばめられた、凝った意匠。

正面のテラコッタによる装飾も、ヴォーリズ建築としては異例なほどに豪華です。

四条大橋の下には、何本もの黒い木の杭が残されています。

近世に木橋であったころの名残り?ではなく、大正期に架けられたアーチ橋の、橋脚の基礎杭のようでした。

東詰の橋の下には、アーチ橋の橋脚も撤去されずに残されています。

四条大橋は、京都大洪水で流されることはありませんでしたが、アーチ橋であったため流木が大量にひっかかり、周辺の花街が浸水しています。

このさいに、架け替えを急いだ様子がしのばれます。

 

今回の鴨川遡行第1回は、ここまでとします。

この川が「鴨川」と呼ばれるのは、上流で賀茂川と高野川が合流している地点から。

次回は、三条大橋から上流の合流地点・出町までを見て行こうと思います。

何度も見てきた鴨川ですが、違った視点で眺めると、また新鮮な発見があるようですね。