後方に、清水寺のある東山を望みます。
東に向けてゆるやかに登るこの先の道は、五条坂。
清水焼の窯元や陶器店が軒をつらねています。
五条坂を登る前に、ちょっと寄り道。
五条大橋西詰を高瀬川に沿って少し南へ歩くと、サウナの梅湯さんがあります。
この周辺は、かつて五条楽園とよばれた旧遊郭街。
唐破風のついた妓楼建築が、いくつか残されています。
戦後は、洋風の「カフェー建築」も多く建てられ、たくさんの美しいタイルを見ることができる場所でもあります。
少し、ここで陶磁器であるタイルを見ていきます。
今は、おしゃれなレストランになっている建物の2階には、網代格子(あじろごうし)模様のタイル。
1階外壁には、布目のついた美しいターコイズブルーのタイル。
同じタイルが、玄関の段差部分にも使われています。
その他のお店でも、
浅葱色のタイルに、散りばめられたデザインタイル。
丸いアール・デコ調のステンドグラスを取り囲む、さまざまなタイル。
これも、アール・デコのステンドグラスと、細い筋がついたスクラッチタイル。
窯変タイルもありました。
やはり旧遊郭街は、タイルの宝庫のようです。
途中、五条通に面して、レトロな外観の銀行がありました。
明治の煙草王・村井吉兵衛が設立した、旧村井銀行五条支店。
現在は京都中央信用金庫東五条支店として、使われています。
壁面にイオニア式のオーダーが並ぶ、古典様式。
いかにも銀行といった、堅実さを感じます。
1924(大正13)年竣工で、煉瓦造石張。
設計は、村井家お抱えの建築家・吉武長一です。
清水焼の窯元があります。
こちらは陶泉窯。
陶器屋さんも並びます。
社殿には、「陶器神社」の提灯。
少し北に入った六原公園には、「京都市陶磁器試験所発祥地」の石碑。
後方には、登り窯の煙突が2本見えます。
1970年代より、大気汚染防止条例などによって、五条坂では登り窯が使われなくなりました。
多くの窯元が、山科区の清水焼団地や宇治市炭山に移転しましたが、一部の窯や煙突は今でも保存されています。
五条通を南側に渡り、有名な六兵衛窯横の静かな小路に入ると、今日の目的地がありました。
陶芸家であり、「民藝」運動を柳宗悦や濱田庄司らと起こした、河井寛次郎の記念館です。
手仕事によって生み出された日常づかいの雑器に、美しさを見出そうとした人です。
落ち着いた佇まいの玄関内部。
来館者が使うように置かれている、傘立ての作品。
さすが、「日用の美」を追い求めた寛次郎の記念館です。
入口付近には、板張りの床に、炉と自らデザインした家具類。
この建物そのものも、寛次郎の設計です。
炉の周りにも、さりげなく美しい作品が置かれています。
看板娘のえきちゃん(7歳)もいます。
暖かい日は、縁側でお昼寝。
陶製で、豊かな風合いの沓脱石。
「喜ぶ者は皆美しい」の言葉が残されています。
左手に蹴ろくろが見える陶房。
何気なく置かれた、甕の作品。
保存されている愛用の登り窯。
使い込まれた窯の外壁は、窯変しています。
畳敷ではなく、風情のある敷物の茶室。
繊細な初期の作品。
後期の、深く碧い一輪挿しの花器。
寛次郎と、その遺愛品。
文化勲章も人間国宝も辞退し、無位無冠の一陶工として生きました。
2階の静かな書斎。
小さいですが、見入ってしまう蓋つきの小箱。
大きな茶碗蒸しの器は、
このように、皆で分かち合って使ったのですね。
記念館の小路には、陶器関係の町家が続きます。
この家は、軒裏のデザインが面白い。
軒下には、陶芸作品が置かれていたりします。
すぐに突き当たる渋谷(しぶたに)街道を、東へ。
古代より山科方面に続く、古い街道です。
路傍には、古い地蔵とともに、神々が祀られていました。
道標には、「是より 西大谷 清水」とあります。
この小路の先は、鳥辺野の中心部。
現代の陶工は、ここでも養成されているようです。
渋谷街道は、一時的に国道1号線と合流します。
右の大きなトンネルが、国道の東山隧道。
左の小さなトンネルが、渋谷街道にある歩行者用の花山隧道。
花山隧道を、東側から見ました。
1903(明治36)年に開通しています。
赤い煉瓦壁の上部には、苔むした「花山洞」の扁額がありました。
移転した窯元が集まる清水焼団地までは、あと少しです。
今回は、陶器をめぐる小さな旅でした。
かつての遊郭街に残る、懐かしさを帯びた数々のタイル。
もう煙が立ちのぼることのない、登り窯の煙突。
「暮らしが仕事」として生きた陶芸家の、生きざまを体感することができた河井寛次郎記念館。
今日の街歩きも、また楽しいものとなりました。