のら印BLOG

野良猫のように街を探索し、楽しさを発見するブログ

大阪にもある旧居留地の名残り・西区川口

幕末以降の日本が、安政の五カ国条約によって外国人居留地を開いた都市としては、横浜や神戸、長崎が良く知られています。

しかし、東京とともに大坂にもまた、居留地は置かれました。

今回は、大阪市西区川口に残された、旧居留地の跡を訪ねてみます。

 

大阪メトロ阿波座駅を降りて、本町通り沿いに西へ向かいます。

途中、「ざこばばし」と彫られた、橋の親柱が残っています。

雑喉場(ざこば)とは、天満の青物市、堂島の米市とならぶ魚市があったところです。

大坂は、水の都であり、八百八橋と呼ばれたほどに橋が多かった町。

ここには百間堀川に架けられた雑喉場橋がありました。

すぐ左手の江之子島には、明治から大正にかけてドームのある洋風建築の大阪府庁がおかれ、「江之子島政府」とよばれていたそうです。

 

雑喉場橋跡をすぎると、すぐに今度は木津川橋。

江之子島居留地が置かれた川口を結ぶ橋として、1868(慶応4・明治元)年に架けられています。

木津川橋から、北側の昭和橋を望みます。

北から流れてきた淀川の旧本流は、昭和橋のあたりで安治川と木津川の2つの川に分かれ、大阪湾に注いでいます。

木津川橋を渡ると、ここからが旧居留地跡の川口。

川口は、安治川と木津川という大阪湾と大阪市街を結ぶ2大水路にはさまれた、河川交通の要所にあります。

川口交差点の角には、大坂船手会所跡の碑。

船手会所は、大坂湾から出入りする船と、湾内に停泊する船の管理を行う江戸幕府の役所でしたが、勝海舟の提言で1864(元治元)年に廃止されています。

その跡地が、外国人居留地として活用されたようです。

 

一筋南へ下がると、「川口居留地跡」の石碑。

横には、赤御影石の立派な案内板も。

1868(慶応4・明治元)に、26区画が外国人に競売されたとあります。

当初は、外国人貿易商が多く住んだようですが、川口は港としては長くは続かなかったようです。

大阪湾から6Kmも上流にあり、水深が浅く大型船舶が入港できなかったため、貿易会社は次々と神戸の居留地へ移転してしまいました。

案内板に描かれた地図。

左側が、北になります。

1891(明治24)年時点の居留地の主な施設が書かれていますが、この頃にはすでに貿易関係の施設はなく、キリスト教関係の教会、学校、病院がそのほとんどをしめています。

 

現在、旧居留地時代のまま残る建築はありませんが、唯一当時の面影を今に伝えてくれているのが、日本聖公会川口基督教会です。

1870(明治3)年より宣教活動を開始した、聖テモテ教会を受け継いでいます。

現在のビクトリアン・ゴシック様式の建築は、1920(大正9)年の竣工ですが、阪神淡路大震災で大きな被害をうけ、復元されたものです。

塔屋の中ほどから、煉瓦の色が違っています。

崩落した上半分が、修復されているのが分かります。

正面から見ると、イギリス積みされた当時の煉瓦が、良く残っています。

設計は、米国人建築家のウィリアム・ウィルソン

立教大学池袋キャンパスや、日本聖公会の熊谷や川越の礼拝堂も手掛けています。

エントランス横。

見せていただいた礼拝堂内部。

屋根は、はさみを広げたような木製のシザーズ・トラス構造で支えられています。

ゴシック様式によく似合う、尖った照明。

前方右手には、立派なパイプオルガンも。

アーチ窓からの採光が美しい祭壇。

祭壇上部のステンドグラス。

礼拝堂側面にも、ステンドグラスのアーチ窓が並びます。

定礎石には、竣工の前年にあたる「1919年」とあります。

「大阪の近代教育発祥の地」のプレート。

この川口では、多くのミッションスクールが興されたようです。

立教学院平安女学院梅花学園、プール学院、大阪女学院、大阪信愛女学院、桃山学院聖公会神学院の名前がありました。

 

美しい教会建築に堪能したので、向かいのちょっとレトロなビルにあるお店で休憩。

テラコッタとタイルで軽く装飾されたビルは、通称川口アパート。

昭和初期の建築のようです。

そこにある喫茶水鯨。

金沢市で惜しまれながら閉店した、「珈琲館禁煙室」の内装や食器を受け継いだお店のようです。

椅子やテーブルはもちろん、ステンドグラスや照明も金沢の頃のまま。

「珈琲館禁煙室 たばこの吸える喫茶店」という謎の赤い看板も、そのままのようでした。

 

居留地跡から少し西にある、港の跡を目指します。

途中、川口聖マリア幼稚園の片すみに、「富岡天主堂跡」の石碑。

川口の中でも、港があった安治川沿いの地域は、富島とよばれています。

碑の側面には、1879(明治12)年、この地にゴシック様式で赤煉瓦造のカトリック礼拝堂が建てられたと書かれています。

 

安治川沿いに出ました。

川を背にして、「大阪開港の地」と「大阪電信発祥の地」の2つ石碑。

さらに、「川口運上所跡(大阪税関発祥の地)」の案内板も並んでいます。

この地には、1867(慶応3)年に大阪税関の前身である川口運上所がおかれました。

翌1868(明治元)年7月15日には、川口が諸外国に向けた大阪の開港場として開かれています。

また、1870(明治3)年、川口運上所内に川口電信局が開設され、関西で最初の電信線が神戸まで架設されました。

 

石碑の東側には、明治以降大阪港周辺に多くの倉庫を建ててきた住友倉庫が、1929(昭和4)年に建てた川口倉庫が見えます。

安治川沿いの富島町通を西に歩きます。

このあたりには、年季の入った港湾施設が残っています。

長く営業されてる感じの港湾関係の事業所もあります。

そうこうしていると、川沿いの小さな公園に河村瑞賢紀功碑がありました。

河村瑞賢は、江戸時代初期の人ですが、淀川の洪水を防ぐために運河である安治川を開削した人物です。

河村瑞賢がいなければ安治川はできておらず、安治川がなければ川口が大阪の開港場になることもなかった、ということでしょうか。

 

今回は、忘れられがちな大阪の旧居留地を訪ねてみました。

そこには、横浜や神戸のような華やかな街の雰囲気は残っていませんでしたが、時代の端境期にあった大阪の、知らなかった一面を垣間見ることができたように思います。