のら印BLOG

野良猫のように街を探索し、楽しさを発見するブログ

北九州のら歩き・門司港のレトロは掛け値なし

こんにちは、のら印です。

今日は、JRで博多から門司港へやってきました。

 

門司港レトロを観光の看板にしているだけあって、プラットホームから趣きがあります。

駅舎は、さらにすごいです。

1914(大正3)年にできたものを、保存修理により、もとの姿に復元したとのこと。

左右対称が特徴のルネサンス様式のようです。

設計は鉄道院九州鉄道管理局。

現在は使用していない、昔の切符売り場もあります。

 

駅舎内部の階段も、2階も、

重厚感にあふれています。

 

駅を出てすぐのところにあるのは、旧門司三井倶楽部。

三井物産の社交倶楽部として、1921(大正10)年に建てられています。

設計者は、福岡市を中心に活動した松田昌平。

ヨーロッパ伝統の木造建築工法であるハーフティンバー様式だそうです。

骨組みは木造ですが、壁面は煉瓦や石と漆喰などで造られているとのこと。

 

さらに、そのすぐ北側にも、赤煉瓦風の美しい建築物があります。

1917(大正6)年に建てられた、旧大阪商船門司支店です。

煉瓦型枠の鉄筋コンクリート造と木造モルタル仕上げを、組み合わせているようです。

壁面が赤煉瓦のように見えてオレンジ色ががっているのは、タイル貼りのためとのこと。

特徴である八角形の塔屋は、19世紀に伝統芸術からの分離をめざしたセセッション様式の影響を受けているそうです。

設計者は、大阪建築士の草分けといわれる河合幾次。

大陸航路の一大拠点であった、当時の門司港の面影をしのばせてくれる建築でした。

 

日本最大級の歩行者専用はね橋で港の対岸にわたると、岸壁にせまるように、また赤煉瓦の建築が見えます。

1912(明治45)年に建てられた門司税関の庁舎。

門司空襲による被災などで修復された箇所も多いですが、この部分などは当時の姿がそのまま残っていそうです。

設計は、東京駅の辰野金吾京都国立博物館の片山東熊とならび、明治建築界の三大巨匠の一人にかぞえらえる妻木頼黄(よりなか)が監修し、咲壽栄一が行ったようです。

建物内部は全面的に改装されています。

2階の窓からは、先ほど通ったはね橋が、開いていくところが見えました。

 

旧門司税関の近くには、「んっ、見なれない様式」と思わせる建物も。

これは、大連友好記念館。

北九州市と中国大連市の友好都市締結15周年記念として、ロシア帝国が1902年に

大連市に建築した鉄道汽船会社の建物を、この場所に複製したそうです。

なるほど、どうりで見なれない様式に思えたわけだ。

 

さて、このあとは観光客で賑わう港付近をはなれ、国道3号線を越えて、門司港が石炭や米などの積出港として繁栄した時代の「なごり」を探しに行きました。

ちなみに九州を縦断する国道3号線は、この老松地区あたりが起点となっています。

ありました。

まずは、小原市場です。

ビルの1階が生鮮食材の市場になっています。

写真のホルモンセンターのほか、鮮魚店、干物やさんなどが並んでいました。

いい感じの市場内ですが、お客さんはあまり見かけません。

ホルモンセンターでは焼いたホルモンがなかったので、かわりに豚バラ串を買いました。

 

小原市場を出ると、はす向かいに中央市場の看板があります。

シャッターに絵がペイントしてあるので、最初は「落書き?」と思いましたが、どうも違うようです。

この商店街では、客が減少することに対して、様々な活性化の努力をされているようです。

シャッターがしまっている店舗も多いですが、狭い通路のあちこちに、懸命に営業をつづけるメッセージが書かれています。

「帰省したらここに寄るんよ 私にしたら市場も実家みたいなもんやけね」とか、「満開とは言えんけど 今も昔も市場に笑顔の花が咲く」とか、地元の方々のこの市場に対する思いがにじみ出ていますよね。

1920(大正9)年に「老松公設市場」として営業を始め、門司空襲をへて戦後は闇市として再興してきた商店街。

昭和を生きぬいた商店街を歩くだけでも、感慨深くなってきます。

 

中央市場をぬけて、老松公園をすぎると、今度はショッパーズ老松があります。

入口にはうどんやさん。

内部では、鮮魚店や花屋さん、ブティックなどが、たがいの店舗が向かい合うようなかたちで営業されていました。

小さくまとまった市場ですね。

 

本当にレトロな商店街は、これで終わりません。

ショッパーズ老松につづいて、プラザ祇園という商店街もありました。

九州最北端の商店街になるようです。

三角形になった通路には、鮮魚店を中心に、精肉店お茶屋さん、お米屋さん、洋品店などが並んでいます。

そして、商店街を出たところにも、お店はあります。

オレンジ色の目立つお店は、「てんぷらのなんば」さん。

クジラ肉をはじめ、魚介類や野菜まで、たくさんのフライや天ぷらが並べられていました。

どれも安くておいしそう。

思わず買いすぎてしまい、近くの老松公園のベンチで、しばしの食事休憩となりました。

写真下のパックは、別の鮮魚店で買ったものです。揚げ物ばかり食べすぎですね。

 

ここからは、裏通りとなる仲町通りをとおって、かつての門司港の繁栄を実感するために、料亭三宜楼(さんきろう)に向かいます。

三宜楼坂とよばれるなだらかな坂を登ると、高い石垣の上に、すこし見上げるように三宜楼はありました。

三宜楼は、かつて門司港を代表する高級料亭でした。

現在の建物は、1931(昭和6)年に新築された木造三階建で、現存する料亭の建屋としては九州最大級のものだそうです。

当時は、多くの有力者や文化人が訪れ、にぎわったとのこと。

建物内では、さまざまな形状の下地窓や欄間がしつらえられています。

百畳間の16畳もある大舞台。

俳人高浜虚子が過ごしたといわれる3階の俳句の間からは、荷を積んだ船が出入りする港を眺めることができます。

当時の船主たちも、港の様子を肴にしながら、盛り上がっていたのかも知れませんね。

ちなみに三宜楼は、廃業後に取り壊されようとしましたが、地元の方々の保存活動により今の姿をとどめることができているようです。

 

三宜楼坂を今度は下っていくと、栄町銀天街のアーケードに行きあたります。

1954(昭和29)年にできた商店街で、約300mほどある門司港の中心的な商店街です。

道幅は広く、アーケードも高くて、以前はさぞ賑わった商店街だったことが容易に想像できます。

でも今は、シャッターが降りている店舗も多く、すぐ近くの港にはたくさんいるはずの観光客の姿も、ほどんど見られません。

こんなお店もありました。

「大衆向 平民食堂」と書かれています。

ネーミングセンスが、このうえなくレトロ。

腰壁の緑色のタイルや、ドアの仕様も、何とも味がある。

「暫くの間 臨時休業致します」と書かれた貼り紙は、いつ貼られたものなのだろう。

 

しばらく行くと、こんなレトロなウインドウを発見。

海鮮丼をすべてパフェ仕立てにしています。

海鮮丼を、メロンソーダと一緒に食べると、どんな味になるんだろう。

左下にふぐ肉ごぼ天うどんがあるのも魅力的。

 

商店街には、こんな路地もありました。

人ひとりが通れるくらいの路地に、スナックなどが奥の方まで続いているようです。

現在営業している店は、どれくらいあるのでしょうか。

 

ぐるりと回ってみて、レトロを売りにしている門司港以上に、かつての繁栄をしのばせる本当にレトロな通りが広範囲に存在していることを、確認できたように思います。

門司港レトロ」、看板に偽りはなかったようです。

 

おまけです。

フェリーの無料送迎バス乗り場があるので、すこし移動して門司駅北側に来ました。

こちらの赤煉瓦プレイスとよばれるエリアにも、煉瓦造の建築が並んでいます。

1912(大正2)年に建てられ、「サクラビール」を販売していた帝国麦酒(株)の工場跡です。

まず手前にあるのが、旧サッポロビール醸造棟とよばれる、帝国麦酒門司工場醸造棟の跡です。

煉瓦建築としては、大きなものです。

帝国麦酒は、桜麦酒、大日本麦酒日本麦酒サッポロビールと会社のかたちと社名の変更をくりかえしたようです。

この建物は、福岡工業学校卒業生・林栄次郎が、ドイツ・ゲルマニア社の図面を参考に設計したとのことです。

煉瓦造の建物ですが、ビールの製造工程の違いによって、2階建ての部分、3階建ての部分、4階建ての部分、7階建ての部分と高さに違いがつけられているのがおもしろいですね。

 

その東隣にあるのが、北九州市門司麦酒煉瓦館。

こちらは、帝国麦酒門司工場の事務所であった建物で、建築された年も、設計者も同じです。

ただ、同じ煉瓦造でも、外壁の煉瓦の色が違います。

灰色ががったこの煉瓦は、北九州に多い鉱滓(こうさい)煉瓦のようです。

鉄を作るさいに出る大量の滓(かす)を有効活用して作った煉瓦です。

日本の産業革命を支えた、八幡製鉄所のある北九州市らしいですね。

 

このあとは、門司の海で日没を眺めて・・・

フェリーで大阪南港に戻りました。

バイキングを食べすぎたのは、もちろんのことでした。