のら印BLOG

野良猫のように街を探索し、楽しさを発見するブログ

京・旧街道の痕跡をたどる【東海道編② 蹴上から山科】

こんにちは、のら印です。

京都を起点とする旧東海道の跡をたどっています。

前回は、三条大橋を出発して蹴上までの行程でした。

今回は、蹴上の坂を登ったところにある日岡(ひのおか)峠越えからスタートします。

写真は、九条山付近の日岡峠です。

旧東海道は、このあたりでは三条通と同じルートを通っています。

なのに、「九条山」とはどういうことでしょうか。

これは単に、写真左手の山が、もともと公家である九条家の所有だったことからきており、九条通とは関係がありません。

 

かつて京阪電鉄京津線の九条山駅があった付近をピークとして、道は下り始めます。

このあたりの道路南側に、粟田口刑場跡の看板があります。

九条山付近は、粟田口ともよばれ、「京の七口」の一つでした。

東海道から京都の町に出入りする玄関口になります。

粟田口刑場は、江戸時代より前からあり、1万5千人くらいが処刑されたと推定されているそうです。

天王山で豊臣秀吉に敗れた明智光秀の遺体がさらされたのも、この場所のようです。

三条通をはさんだ刑場跡の向かいには、供養のためでしょうか、古そうな地蔵堂があります。

刑死した人々の供養としては、京都の多くの寺院が供養碑を建てたようですが、明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によってそのほとんどが打ち捨てられたようです。

ただ、この少し先の旧東海道と分岐した三条通の日ノ岡付近に、修復された名号碑が場所を移して残されています。

この約4mある大きな名号碑は、廃仏毀釈のさいに破壊されたのでしょう。

南無阿弥陀佛の「弥」の真ん中にくっきりと割れ目があり、上下で明らかに色が違います。

側溝のふたに流用されていた上半分を、下部分を復元して継ぎたして建てているようです。

ちなみに、この大名号碑を建てたのは、江戸中期の木食養阿(もくじきようあ)上人です。

 

刑場跡のすぐ近くには、日岡峠修路碑も建っています。

日岡峠は、物流の重要なルートでありながら急坂の難所であったため、何度も何度も掘り下げられ、整地されてきました。

この修路碑は、1877(明治10)年の工事完成を記念したもので、槇村正直知事の名が記されています。

 

さらに少し進むと、草藪におおわれて近づくことができませんでしたが、石碑が2つ並んでいます。

これらの碑には、「南無阿弥陀佛」、「萬霊供養塔」と彫られているとのことです。

刑場は明治維新後により廃止されましたが、1872(明治5年)に、西洋医学の普及のために4面ガラス張りの解剖場が置かれ、多くの医師が参観したとのことです。

長くは続かなかったようですが、2つの石碑は、このころに建てられたもののようです。

 

今の三条通は、本来の東海道よりも深く掘り下げて通しているため、道路の両側に石やコンクリートで造られた擁壁があります。

道路北側の擁壁には、このような名磐がはめこまれています。

「旧鋪石 車石」と書かれた両側に、車石とよばれる牛車の轍がくっきり残る石が、縦に並べられています。

車石は、京につながる3つの街道(東海道竹田街道鳥羽街道)に敷かれた花崗岩の厚い石のことです。

東海道の場合は、大津までのルートに敷かれたようです。

米俵などの重い荷を積んだ牛車の車輪が土にめりこまないよう、並べられたのでしょう。

もともと車輪用の窪みをつけていたわけではなく、同じ規格の牛車が何度も通ることにより、すり減った跡が残っています。

大津までの東海道を進むと、この車石に、いたるところで遭遇することになります。

 

さっそく車石を後世に伝えるための広場がありました。

展示された車石に添えられた説明では、1997(平成9)年の京都市営地下鉄東西線開通により廃線となった京阪京津線の軌道敷を利用して、この広場を設置したようでした。

 

この広場を過ぎたところで、旧東海道は広い三条通と分岐します。

左の広い道路が三条通

右の細い道が、旧東海道になります。

車が1台通れるくらいの道幅で、三条通が下っているのに対して、また少し登っています。

旧家も残る旧東海道を東に進みます。

旧東海道の石標があります。

木立の向こうのずいぶん下方向に、今の三条通が見えます。

大きく掘り下げられている三条通と、逆に登っている旧街道の高低差が、よく分かるのではないでしょうか。

ここから高低差は、さらに広がっていきます。

 

旧東海道沿いには、点々と地蔵堂が残ります。

地蔵堂の横には、手水鉢も。

山の湧水を利用した水飲み場だったのでしょうか。

洗い場もあります。

 

そして、光照寺の石段があるあたりから、峠道は下り始めます。

右手にのフェンスの中に、古い道標が2つありました。

読み取りにくいのですが、「右明見道」「右かさんいなり道」とあるようです。

明見とは、山科区大塚にあり、江戸中期に妙見信仰でにぎわった妙見寺のことでしょう。

花山稲荷神社は、山科区西野山にあります。

 

このフェンス横の細道をはいると、すぐに狭い狭い階段を下ります。

そこに隠れるように残るのは、木食寺ともよばれる亀の水不動尊

江戸中期に日岡峠の改修に心血をそそいだ、木食養阿(もくじきようあ)上人の庵の跡です。

木食とは、穀物を断ち、木の実や草だけで生きる修行を積んだ僧のこと。

上人は、急坂の泥道に足をとられて牛馬や旅人が難渋する姿に心を痛め、寄付を集めて日岡の峠道を傾斜をゆるやかにするため掘り下げ、道幅をひろげ、車道と人馬道を整備し、小石や石を敷いたそうです。(このときに、車石が敷かれたかどうかはよく分かりません。)

また、湧き水を亀の口から落として飲用とし、人も牛馬も飲めるようにしたほか、旅人を湯茶でもねぎらったとのことです。

あと、この木食養阿上人は、先ほど紹介した粟田口刑場の刑死者を供養する大名号碑を建てた人でもあります。

ものすごく想いの強い、行動の人だったのでしょうね。

 

亀の水不動尊からは、急坂を下ります。

この道で、重い荷を積んだ牛車を押し上げるのは、相当大変なことだったでしょう。

ましてや、ぬかるんだ泥道であれば。

泥と汗まみれになりながらこの坂を登った昔の人たちにとって、この先の亀の水はさぞや美味しく感じられたことと思います。

 

坂を下り終え、かつて一里塚があったと伝わるあたりから、日岡峠をふりかえります。

ああ、あの山を越えてきたのですね。

その後も、狭い旧東海道をたどり、さらに東へ向かいます。

すると、緑が生い茂る天智天皇陵の前で、広い三条通に合流します。

しばらく三条通に沿ってあるき、東海道本線の高架をくぐると、再び旧東海道三条通から分岐します。

まん中の左手に旧家が残る道を、東に進みます。
ゆるやかな登りのすずめ坂です。

この道は、現在は旧三条通ともよばれています。

 

途中、道標があります。

五條別れの道標です。

「右ハ三条通」、「左ハ五条橋 ひがしにし六条大佛 今ぐまきよ水道」とあります。

「ひがしにし」は東西本願寺、「六条大仏」は方広寺、「今ぐま」は今熊野のことのようです。

京都に入る旅人は、ここで三条大橋から入るのか、五条大橋から入るのかの選択を迫られたのでしょうね。

徒歩で時間をかけて移動していた時代に、この道標は重要なのものだったのでしょう。

ちなみに、裏面には宝永4年(1707年)と書かれていました。

建てられたのは、南海トラフ巨大地震が起こり、富士山が大噴火した大変な年だったようです。

 

そして、民家の軒先に置かれた車石を横目に見ながら進むと、

奴茶屋跡がある山科駅前付近に到着です。

左手に見えるラクトAのビルあたりが、奴茶屋の跡です。

交差点後方には、京阪とJRの山科駅があります。

奴茶屋は、1447(文安4)年に、街道に出没した盗賊を打ち取った弓の達人が創業し、東海道を往来する旅人でにぎわった茶店です。

茶店だけではなく、宿場や本陣としても利用されたようです。

それにしても、応仁の乱よりも前に創業した茶屋が、1994(平成6)年に駅前再開発で移転した後もラクトA内で営業されているとはものすごい。

創業600年近いことになりますね。

 

さて、ここからは大津まで旧東海道をたどります。

車石との出会いは、もうしばらく続きます。