前回は、京都府宇治市の黄檗周辺にある、旧陸軍の火薬庫や火薬製造所跡を訪ねました。
今回は、北隣の木幡周辺を歩いてみます。
JR木幡駅です。
駅周辺には、宇治陵と呼ばれる、平安期に栄華を極めた藤原北家の陵墓が点在しています。
写真は、その総遥拝所でもある1号墳。
石碑には「藤原氏塋域(えいいき)」と書かれ、藤原道長の名前もあります。
大きな製茶場や、
長屋門の奥に洋館が残る旧家もありました。
そんな木幡駅のすぐ北側には、今は「木幡緑道」と呼ばれていますが、旧陸軍宇治火薬製造所木幡分工場への引込線跡が残されています。
説明板にある、地図に加筆してみました。
青く印をつけた2つの宇治火薬製造所のうち、北側が木幡分工場。
日露戦争による需要急増を受けて、1906(明治39)年に建設されています。
その北端まで、赤い引込線が、JR(当時は省線)から分岐して伸びているのが分かります。
引込線は、1941(昭和16)年に開通したようです。
右手のJR線から、徐々に引込線跡が離れていきます。
左手には、前回見た黄檗の許波多神社とまったく同じ名前の「許波多神社」。
645(大化元)年という創建年も、柳大明神を名乗っていることも同じ。
それもそのはず、こちらは、古く12世紀に柳山から分祀された神社のようです。
引込線跡の周辺には、「陸軍用地」と書かれた石の標柱があちらこちらに残ります。
こちらは、ちょっと埋もれかけている。
緑道を過ぎると、引込線跡は大きく西へカーブ。
ここからは、高い土堤が築かれ、その上に線路が敷かれていたようです。
レールは今は無く、草は茫々。
南側の土堤下にも、草に埋もれて標柱がありました。
細い道との交差部分に、橋桁は残っていません。
橋台の高さは、5〜6mほどありそうです。
西へ進むと、奈良街道と交差します。
堤の下を歩いているのは、萬福寺の禅僧でしょうか。
奈良街道の上には、橋桁が残っています。
手前左にも、「陸軍用地」の標柱。
さらに西へ進むと、京阪電車の下は「けた下制限高1.2m」。
こんなに低い高架は、ちょっと珍しい。
郵便配達の方も、バイクを降り、身体を屈めて通行されていました。
京阪電車が通ると、こんな感じ。
引込線が上を通るには、高い堤が必要ですよね。
続いて来た土堤を振り返ります。
やはり、草茫々。
このあたりのマンホール蓋は、宇治橋に紅葉。
分工場跡まで行くと京都市伏見区になりますが、この辺りはまだ宇治市。
引込線跡は、パナソニック宇治工場の北側をまっすぐ西へ。
小さな曲がりを越えて、さらに引込線は真っ直ぐ。
この先に、分工場のプラットホームがあったのでしょう。
少し南へ進むと、木幡池の向こうに分工場があった辺り。
桃山南団地手前の戸建てエリアも含め、分工場の跡地になります。
団地内には、防火暴風帯として植えられていた、松が残ります。
他に遺構がないか、探してみました。
この自然石で保護された排水溝も、分工場時代のものなのでしょうか。
利用目的が分からない石組も、そうなのかな。
引込線が奈良街道と交差する地点に戻り、北へ。
古い街道沿いには、格子のある家並が残ります。
途中、柿ノ木町に「左 長坂地蔵」の道標。
少し街道を離れて「左」へ進むと、浄土宗の正覚院がありました。
門前には「奉献地蔵尊」の標石があり、門内には地蔵堂があるようです。
側面には、「天保五年」とありました。
長坂地蔵は、本来ここから5kmほど東の山中にあったものですが、爆発的に信仰を集めた時期があったため、参詣者の便をはかって正覚院に移されたようです。
奈良街道をさらに進むと、T字路になっている札の辻に出ます。
その角にも、また上部に仏像が彫られた、「長坂地蔵」の仏道標。
札の辻の石標は、側溝の工事で、たいへんな状態になっていました。
しかも、ゴミ収集場所の看板が掛けられています。
看板をずらして確認すると、「六地蔵宿立場高札場」とあります。
後ろに見える石垣は、古いお茶屋さん。
看板には、「宇治茶 日本煎茶元祖 永谷宗園」とあります。
宇治田原出身で、江戸時代に美しい緑の煎茶を生み出した永谷宗円。
こちらは、当時から宗円の製茶場があった場所で、子孫の方が営まれている古いお店のようでした。
この後は、斜向かいの古民家を活用した「喫茶 六地蔵」で一休み。
落ち着いた店内で、
美味しいコーヒーをいただきました。
古い奈良街道が通る静かなお茶の町に通された、火薬専用の引込線。
今は鉄路も残らず、草茫々の土堤と石の標柱が残されていました。
戦争が起こるたびに密かに拡大されていった宇治火薬製造所ですが、今もその遺構の存在は、世間にそれほど知られていないのかも知れません。
前回からの2回にわたる街歩きは、宇治の歴史の見えにくい断面を垣間見る、小さな旅となりました。