京都市山科区には、戦国時代に「城」とよばれた山科本願寺がありました。
今回は、公家の日記にも「荘厳ただ仏国のごとし」と記録されながら、焼き討ちにより一夜にして消滅した寺内町の跡を歩きます。
渋谷西野道のT字路に、古い道標が立っています。
「右 蓮如上人御往生舊地」とあり、側面を見ると1797(寛政9)年に建てられたことが分かります。
山科では、このような蓮如関係の旧跡が、いたる所で見られます。
衰微していた浄土真宗本願寺教団を大教団にしたのが、本願寺8世で「中興の祖」と言われる蓮如。
延暦寺により大谷本願寺を破却されたため、近江・北陸での布教に転じた蓮如ですが、1483(文明15)年、山科に壮大な本願寺を再興しました。
道標が面しているのが、南へと向かう西野道。
左手は、後方の東山から来ている渋谷街道。
山科本願寺の寺内町は、この辺りから東南の方角に広がっていました。
時は、すでに戦国の世。
山科寺内町は、敵襲に備えて高い土塁と堀で守られ、要塞化されていったようです。
西野道を南へ進むと、西宗寺がありました。
門前には、「蓮如上人御往生之地」の石柱。
境内には、古そうな石塔や瓦も残ります。
この西宗寺は、蓮如の旧跡ですが、位置的には「御本寺」とよばれる本丸エリアのすぐ外側になります。
内側の御本寺には、御影堂など本願寺の主要な堂舎が並んでいました。
西野道を少し南へ進み、国道1号線と東海道新幹線を越えると、御本寺を囲んでいた土塁の南西角に出ます。
「蓮如上人ゆかり 山科本願寺土塁跡南西角」の石柱と、京都市が立てた説明板。
説明板の地図を参考にすると、「現在地」の北東に、城で言うと本丸にあたる「御本寺」が広がっていたことが分かります。
外側には、二の丸にあたる、坊官の屋敷などが並んでいた「内寺内(うちじない)」が広がっています。
御本寺も内寺内も、緑色で示された土塁で囲まれていました。
そして、この場所では大きな堀があるため土塁が途切れており、「水落」と呼ばれる御本寺エリアの排水口があったようです。
1532(天文元)年、本願寺に敵対する六角氏と京都町衆からなる法華一揆の軍勢は、この隙間から乱入して寺内町をすべて焼き払っています。
御本寺エリアの中を歩いてみます。
山科本願寺の堂舎は跡形もなく失われていますが、古い町並みが残ります。
これらの町並みは、江戸時代に形成されたのもでしょうか。
立派な旧家が並びますが、その多くが農家のようで、寺院ではありません。
本願寺教団は、江戸時代になって東西本願寺に分立しましたが、幕府はそのどちらにも寺内町内側での本願寺再建を認めませんでした。
茅葺屋根と瓦屋根を組み合わせた、独特な旧家もあります。
個人宅の前には、大きな石がいくつも残されています。
失われた山科本願寺で使われていたものでしょうか。
そんな中に、山科郷士で庄屋として続いてきた奥田家の、立派な長屋門。
主屋は、先ほども見た、急勾配の茅葺屋根と瓦屋根を組み合わせた構造。
1769(明和6)年の建築だそうです。
敷地内には、御本寺エリアを囲む土塁の森が見えます。
奥田家は、蓮如往生地と伝えられる西宗寺の檀家総代も務めてきた旧家。
強い想いを持って、屋敷内に本願寺の遺構を保存してこられたのでしょう。
土塁の裏手には、堀跡も残されていました。
奥田家の向かいには、奥田家分家があります。
おや、基礎の石組に使われている石の一部は、あきらかに焼け焦げているようです。
これも、焼き討ちの痕跡なのでしょう。
分家の南側は、近年、史蹟公園として整備されています。
珍しい石風呂の遺構。
ドーム状の天井がある蒸し風呂で、位置的に法主一族も利用したのではと考えられています。
堀や建物の跡。
公園の隅にも、途切れながら土塁が残されていました。
奥田家から北へ歩くと、山科団地があります。
奥に見える小さな森は、奥田家にある土塁。
団地のこの棟は、駐車場より少し高い所に建っています。
場所的に、御本寺の北端にあたる土塁の上に建っているようです。
隣りの棟も、そのようですね。
今回は、失われた山科寺内町の痕跡を訪ねて歩きました。
でも歩いたのは、まだ中心部である御本寺エリアだけ。
これを取り囲む内寺内、外寺内、南殿の各エリアについては、また次回に。