前回から、大阪市西区の九条に来ています。
大阪メトロの九条駅から、戦前には「西の心斎橋」と呼ばれた九条商店街を、西に抜けてきました。
ところで、大阪には三条や四条がないのに、どうして「九条」という町があるのでしょうか。
諸説ありますが、大川(旧淀川)が海へ出るところに大きな中州があり、これを幕府の儒官であった林羅山が、「衢壌(くじょう 賑やかな地の意味)島」と名付けたのが始まりとのこと。
「衢壌」は、やさしい「九条」の文字に変わっていったようです。
キララ九条商店街を抜けた先には、「源兵衛渡」の交差点。
この交差点の向こうには、安治川が流れ、かつては渡し場がありました。
そして、この安治川ですが、九条島を分割するように掘られた人工の川になります。
少し上流へ行くと、安治川を開削した土木家・河村瑞賢の紀功碑があります。
瑞賢は、たびたび大阪平野に起こる水害を、大川が海に出る直前に九条島が流れを堰き止めていることが原因と考えたようです。
そこで1684(貞享元)年に、わずか20日間という信じ難いスピードで、九条島の中に人工河川(のちの安治川)を通しました。
開削から7年後に作成された、「新撰増補大坂大繪圖(国際日本文化研究センター所蔵)」をお借りします。
大川(旧淀川)が中之島を過ぎたところにある、赤と青で囲んだ部分を合わせたものが九条島。
一つの島を割るように、安治川が開削されているのが分かります。
赤の部分が現在の西区九条側、青の部分は此花区西九条側になります。
さあ、安治川を渡りましょう。
でも、阪神なんば線の鉄橋は見えますが、人が歩いて渡れる橋はありません。
もちろん、今は源兵衛の渡し舟もありません。
あるのは、この地下へと続くエレベーター。
大戦末期の1944(昭和19)年に開通した、「安治川隧道」とよばれる、珍しい河底トンネルです。
日本初の沈埋トンネルとして、河底に構造物を沈めて造られました。
錆びついた昇降表示と、閉ざされた両側のドア。
これらは、1977(昭和52)年まで使われていた車両用エレベーターのもの。
自動車まで、このエレベーターに乗り、川の下を通っていたとは驚きです。
現在は、こちらの歩行者・自転車専用エレベーターが使われています。
エレベーターの横には歩行者用の階段もあったので、こちらで地下へ。
角には防犯ベル。
監視員の方も、24時間巡回されています。
約80mの通路は、直線でないのが面白い。
いくつもの構造物を沈めて繋いだため、少しゆがみが生じたのでしょうか。
通路壁の表示。
東へ行くと西区の九条駅、西へ行くと此花区の西九条駅があります。
トンネルの西口側に出ました。
こちら側でも、使われていない車両用エレベーターは、錆び錆び。
雨どいも、長い時間を経ています。
今も自転車で渡る人が多く、買い物にも利用する大切な交通路です。
安治川に架かる阪神電車の鉄橋。
鉄橋を挟んで、川の右手の建物が、九条側のエレベーター。
左手の建物が、西九条側のエレベーター。
川沿いには、はしけが停泊しています。
安治川は、宮本輝の原作で、小栗康平によって映画化された「泥の河」の舞台でもあります。
モノクロで描かれた、あの戦後すぐの大阪や、水上生活する人々の切ない姿が思い出されます。
安治川トンネルからJR環状線の「西九条駅」までは、歩いてすぐ。
高架下にあるトンネル横丁南側の、まだ輝いていないネオン看板。
北側入口も、昼間はまだ暗い。
阪神電車の高架を抜けると、環状線の高架下沿いにお店の看板が並びます。
高架下は、このちょっと薄暗い感じが良いですね。
夜には賑わうと思われる、「OK18番街」。
戦前の姿を留める安治川東岸に対して、このあたりは空襲被害が大きかったエリア。
でも、うだつの上がる古い民家が残っていました。
石臼が、京都で言う「いけず石」として置かれていたりもします。
安治川が開削されるまで、同じ九条島にあった九条と西九条。
今は、珍しい河底トンネルで繋がっていました。
今回は、川の底を歩いて旧淀川の古い中州を横断する、貴重な経験ができました。