のら印BLOG

野良猫のように街を探索し、楽しさを発見するブログ

野漠の窪地と広大な長屋街の名残り・空堀商店街界隈

前回訪問したばかりですが、また大阪市中央区にある空堀商店街に来てしまいました。

大阪大空襲で焼け野原となった大阪の中心部で、奇跡的に焼け残った空堀通にある、戦後すぐからの商店街です。

ここは上町台地の北西のへりですから、もともと大きな段差があるところ。

そして、大阪冬の陣までは、「空堀(からほり)」とも呼ばれる大坂城の大きな外堀、つまり凹みがあった場所です。

でも、この空堀は、冬の陣後の和議条件として徳川方により破壊され、埋められています。

その後、大阪城の再建時より、瓦土を採取するために200年以上も掘り続けた結果、「野漠(ノバク)の窪地」ができてしまいました。

空堀商店街周辺は、いくつもの理由で凹凸がやたらと多い、興味深いエリアです。

今回も、商店街の西端からスタート。

通路は、カーブしながら登っていきます。

これは、上町台地のへりにある尾根道を、空堀通が通っているためでしょう。

「鰹節」の看板を掲げた、1765(明和29)年創業の老舗鰹節店の「丸与」。

この地域で進められている町家再生の動きを受けて、こちらに移ってこられたらしい。

古い町家の活用により、違和感なく老舗の風情を醸し出しているようですね。

交差する御祓筋。

北に向けて、ゆるやかに下っていきます。

少し北へ行くと、板張りの外壁が印象的な「大大阪藝術劇場」。

今に残る明治期の長屋を活用した、フリースペースのようです。

商店街北側にあたるこの辺りは、すでに「野漠の窪地」の一角。

瓦土を取り終えた広大な窪地には、軒を寄せ合うように長屋が建てられていきました。

野漠の広さは、甲子園球場2つ分よりも広かったようですから、大きな長屋街が形成されたことでしょう。

その先には、住民の表札が掲げられた、長屋の入口にあたる路地。

この奥の長屋には、猫カフェがあるようです。

古典落語「らくだ」の舞台にもなっている、野漠の長屋。

登場人物の熊や紙屑屋も、長屋に猫カフェがあると知ったら驚くでしょうね。

立派な連棟式の家屋もありますが、これも長屋の一種なのでしょうか。

一部は、おしゃれな居酒屋として活用されています。

あちらこちらに、古い家屋の風情を活かした、新しいお店。

町の活性化に、ずいぶんと力を入れているエリアだということが良く分かります。

でも、活用を待つ間、老朽化を防ぐために覆いをかぶされた住宅や、

住人がいなくなった長屋も無いわけではありません。

奇跡的に戦火をくぐり抜けたこの地域には、大戦時の面影を見ることもできます。

長屋の前に残された防火用水。

空襲への備えだったのでしょう。

こちらの2階部分は、空襲時の延焼を防ぐために、銅板で覆われています。

棟続きの隣家は、すでに破却されたのかな。

時の流れを感じさせてくれる、長屋街の六角堂といった佇まいがすばらしい。

 

商店街に戻ります。

前回の訪問時に、楽しい絵を描いたシャッターが下りていた「ぬのめ鮮魚店」は、今日は営業中。

お客さんが並んでいます。

次に商店街と交差するのは、善安筋。

窪地への坂を下ると、前回も見た「空堀通の崖」。

この石垣は大阪城空堀のものではなく、瓦土の採取後に積み上げられたものでしょう。

少し先には、アートな長屋の入口。

路地を抜けると、中庭の井戸を囲むようにして残る長屋がありました。

桃園公園の前あたりから、商店街のアーケードを振り返ります。

この辺りは、地面がかなり低くなっている、たぶん窪地の底。

ものすごい量の瓦土が、削りとられたのでしょうね。

公園のお隣は、空堀で生まれ育った大衆小説家・直木三十五の記念館。

白い壁からこちらをじっと見ているあの人は、そう、あの直木賞の直木さんですよね。

芥川賞芥川龍之介と較べると、人物像について、あまり知られていないのかも。

中に入ると、美しいステンドグラス横の壁面に、歴代の直木賞受賞作品が並べられています。

静かな展示室。

無頼で破天荒な人生だったようですね。

 

また、商店街に戻ります。

雰囲気のある「道勝cafe」の横にある路地の先は行き止まり。

窪地との段差に、行く手を阻まれてしまいます。

こちらは、創業以来百有余年の「こんぶ土居」。

大阪の出汁文化を支える、昆布のお店です。

横にある郵便ポストの角を、野漠とは反対側の南へ曲がります。

少し歩いて東側にある狭い路地に入ると、

住宅の隙間に、突然の窪地。

これは、位置から考えて、大阪城空堀跡と考えられている場所。

空堀は、徳川方によって一度完全に破壊されていますので、石垣は後の時代に積み直されたものでしょうね。

商店街に戻ると、「南区 南空堀町」と書かれた仁丹の琺瑯看板を発見。

「南空堀町」とありますが、現在は「谷町6丁目」。

「南区」は1989(平成2)年に廃止され、「中央区」になっています。

一度、アーケードを出て、広い谷町筋を越えます。

谷町筋を越えると、ふたたび短いアーケード。

アーケードの東端には、思わず入りたくなる「大衆食堂 スタンド そのだ」。

お腹もすいていたので、ちょっと休憩。

店中には、白いタイル張りのカウンターと、壁にある横長の樹脂製メニュー表。

貝出汁のおいしい中華そば定食に、ルーロー飯をトッピング。

手作り感にあふれていて、美味しくいただきました。

店の東側の道には、遠く熊野三山につながる「熊野街道」の道標。

熊野街道沿いにも、2階に銅板を張り巡らせた、大戦中の住宅が残っていました。

おやおや、空堀通にある「そのだ」の南西にも、大きな窪地。

窪地側から見上げると、煉瓦造の地階部分が1階となり、2階建ての木造家屋が3階建てになっています。

家の前には、旧町名継承碑がありました。

ここは、かつては「南桃谷町」と呼ばれていたとのこと。

ということで、この窪地は通称「桃谷の窪地」。

野漠の飛び地のようにして、ここからも瓦土が搬出されたようです。

本当に凸凹しているエリアですね。

 

最後に、谷町筋方面から北西を歩いて、「野漠の窪地」の東端と北端部分を見ておきます。

野漠の東端にある「観音坂」。

やっぱり凹んでいますねえ。

北端にある、榎木大明神下の坂。

やっぱり凹んでいる。

榎木大明神のすぐ北側を、旧熊野街道が通っていました。

左奥から来て、大明神のあるこの角で直角に曲がって右奥へと続き、さらに先で右方向に曲がります。

大きな窪地を作った瓦土の採取は、この旧熊野街道を避けるように行われていたようです。

 

大阪の中心部にありながら、さまざまな理由による起伏の激しい地形。

空襲を免れたことにより残る、かつての長屋の風情。

古い町家を活かして進められる、新しい街づくり。

空堀では、興味に突き動かされて、刺激的な街歩きができました。

 

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