のら印BLOG

野良猫のように街を探索し、楽しさを発見するブログ

八科峠にある謎の石棺と極彩色の鐘楼天井・宇治街道を歩く①

京都市伏見区の墨染交差点に来ました。

奥の五条方面から来て左に曲がる道が、京都と伏見を結んだ古い幹線道路である伏見街道

十字路を右へ進むと、六地蔵を経て宇治に至る宇治街道。

今回は、この宇治街道を辿ってみようと思います。

街道はまず、伏見城があった木幡山の鞍部を抜けるため、登りが続きます。

伏見城は、豊臣秀吉が晩年を過ごし、江戸初期には徳川家康がここから天下に号令を発した日本の中心でしたが、当時の姿はもうありません。

途中、左手に古御香宮が残ります。

本来の御香宮は、南西にある大手筋に面した神社ですが、秀吉の時代には伏見城の鬼門の守りとしてここに遷されていました。

参道を進むと、脇に「陸軍省所轄」の境界柱。

伏見は陸軍第16師団の拠点が置かれた地で、桃山練兵場に隣接するこのあたりには射撃場があったようです。

御香宮の跡はガランとしていて、残された水盤のむこうに、小さな社殿があるくらい。

右手フェンスの奥には、桓武天皇大亀谷陵墓参考地の森が広がっています。

ただ社殿の前には、やたらと大きな石板が敷かれています。

小さな社殿に対して、不自然に大きなこの石は何だろう。

裏に回ると、陵墓参考地を管轄する宮内庁の駒札。

平安京を開いた桓武天皇の陵墓は伏見城築城のさいに破壊されたようで、現在の山麓にある桓武天皇柏原陵は、幕末頃に治定されたものらしい。

ということで、ここが桓武天皇陵の有力な参考地になっているとのこと。

その向かいには、地蔵の祠。

その前には、「右 大岩( )」の道標が立ちますが、これはちょっと変。

大岩山や大岩神社は、ここからは左方向にあります。

きっと、近くの分岐点から移された道標なのでしょう。

古い町屋が残る坂を、もう少し登ります。

峠付近には、「伏見城武家地 黒田長政下屋敷跡参考地」の石柱。

峠の先に、宇治方面の街並みと背後の山々が見えてきました。

石垣のある、立派な旧家があります。

屋敷の前には、「八科(やしな)峠」の道標。

「右 京ミち 左 六ぢぞう」とあります。

石垣は、「逢坂山 車石」でできているようです。

逢坂山ということは、もっと北にある旧東海道に敷かれていた車石ですね。

車石とは、京に牛車で荷を搬入していた江戸時代に、ぬかるみに車輪を取られないよう並べられた、車輪の轍がついた石のこと。

前回歩いた竹田街道でも、いくつもの車石が残されていました。

すぐ東側には、黄檗宗の仏国寺。

境内には、1711(正徳元)年に建てられた中国風の銅碑や、

数々の名庭園を作り、伏見奉行でもあったあの小堀遠州の墓もあります。

そして鐘楼横には、無造作に置かれた見たこともないような石棺。

この花崗岩の切石で造られた石棺は、大正時代に境内から掘り出され、中には火葬骨を入れた骨壺が入っていたようです。

すぐ裏に陵墓参考地があるため、桓武天皇のものではとの声もあるようですが、石棺はとても7~8世紀のものとは思えない。

まさに謎の石棺。

ちなみに、古御香宮の社殿前にあった不自然に大きな石板は、この石棺の台座だったそうです。

急坂を下ります。

右手の住宅街の中に古代よりの木幡関がありましたが、伏見城の背後を通るルートになるため、街道は今のように付け替えられたらしい。

坂を下りきると、旧小栗栖街道との分岐。

そのまま道なりに進むと、六地蔵の名で知られる大善寺に至ります。

705(慶雲2)年に藤原鎌足の子である定恵によって創建されたと伝わる、かなり古い寺院になります。

山門側にまわると「根本 六地蔵尊」の碑が建ち、平清盛によって都の主要街道出入口に置かれた6体の地蔵は、もともとこの寺にあったとのこと。

六角堂には、

冥界往還伝説で知られる平安貴族・小野篁が、木幡山の一本の桜から彫りだしたと伝えられる、6体の地蔵菩薩像うちの1体が残ります。

そして、前回の訪問時には改修工事で見ることのできなかったこの鐘楼。

2代将軍・徳川秀忠の娘で後水尾天皇中宮であった東福門院が、安産祈願成就の礼として寄進したものです。

今回は、じっくりと極彩色の天井を拝見します。

時間の流れの中で色褪せてはいますが、当初は格天井に鮮やかに彩色されていたことでしょう。

天皇家の菊紋と、将軍家の三つ葉葵紋が並んでいるようです。

ここにも並んでいますね。

天皇家と将軍家を取り持つことに苦労した、東福門院らしいデザインになっているようです。

大善寺の前には、道標。

東面には、「みき(右)京みち」。

南面には、「ひたり(左)ふしみみち」。

北面には、「ひたり(左)わうばく(黄檗) うち(宇治)道」とあります。

歩いてきた「京みち」は、ここで伏見城の南側を通ってきた「ふしみみち」と合流し、黄檗・宇治へと向かうことになります。

六地蔵の交差点。

奥に続く旧街道を、宇治方面に進みます。

今では珍しい柿渋屋さん。

小さな小さな水路を超えるところに、「見附橋」の標柱。

この辺りも、まだ伏見城の城下町だったようです。

ベンガラ色の町家の向こうに、山科川の土手が見えてきます。

六地蔵小橋のたもとには、また道標。

「左 おくりす(小栗栖)道」、「☞ だいご一言寺是より十七丁」とあります。

六地蔵小橋から小栗栖方面を望みます。

今はどこにでもあるような小橋ですが、かつては櫃川橋とよばれ、古歌の歌枕にもよく使われたらしい。

橋を越えると、すぐに札ノ辻に至ります。

手前から来た宇治街道は、奥から来る奈良街道と合流し、右手の宇治方面へ。

 

次回も、もう少し宇治街道を歩いてみたいと思います。

車石が敷かれた旧街道と日本で最初の電車道・竹田街道を歩く

京都駅北東にあるビルの角に、「電気鉄道事業発祥地」の石碑が建っています。

ここは、1895(明治28)年に京都電気鉄道によって、日本で最初に電車の営業運転が始められた場所。

左側の道が路面電車の道となりましたが、現在の道はこの先すぐJR線に突き当たります。

かつて、この突き当たり付近には竹田口とよばれる御土居の出入口があり、伏見港に至る竹田街道の起点となっていました。

この竹田街道が、日本で最初の電車道であったわけです。

碑の近くにある、猿寺ともよばれる正行院には、輪形(わがた)地蔵が祀られています。

地蔵堂の前に置かれているのは、中ほどに窪みのついた「輪形石」。

輪形石は「車石」ともよばれ、江戸時代に荷を積んだ牛車の車輪が泥道に食い込まないよう、京都へ物資を運び込む街道に並べられていました。

旧東海道の三条~大津間や、鳥羽街道とともに、竹田街道にも並べられたようです。

高倉通の高架橋を渡って迂回し、京都駅の南側へ向かいます。

右手に見える駅ビルの手前あたりを、かつての竹田街道は横切っていたのでしょう。

というか、大正初期までの京都駅はもう少し北にあったので、線路を横切る必要もなかったのですか。

東海道新幹線の下にある竹田街道八条交差点から、旧街道はひたすら南へと向かいます。

平安京の南限である九条通と交差する、「大石橋」交差点。

今は橋も川も見ることはできませんが、昭和初期までは街道に沿って藍染川が流れており、そこに大きな石の板が架けられていたらしい。

そんな大石橋のすぐ東にある旧陶化小学校には、竹田街道に関わる面白い遺物が残されています。

車石と並んで立っているのは、「石敢當」と刻まれた常夜灯。

1854(嘉永7)年に木綿問屋忠兵衛が、少し南にある勧進橋のたもとに建てたもののようです。

沖縄方面に多い魔除けの石敢當ですが、京都で、しかも常夜灯に刻まれているとは珍しい。

屋根に煙出しのついた古い町家を横目に、少し南へ歩くと札ノ辻交差点があります。

この東南角に、幕府の高札が掲げられていたらしい。

その向かいには、「宇賀神社参道」の金属枠で補強された標柱。

少し東にある宇賀神社は、7世紀に藤原鎌足が金印を埋めた宇賀塚の上に建っているとのこと。

確かに社殿は、少し高い盛り土の上にあるようです。

伝承のとおりだとすると、京都でもかなり古い由緒の神社になりますね。

間もなく街道は国道24号線と合流し、勧進橋で鴨川を超えて南へ。

勧進橋という珍しい名前は、かつて伏見稲荷の改修を名目に、通行料を取っていたことから来ています。

橋を渡りきると、左の国道から分かれて、右手にある鴨川沿いの旧道を進みます。

ここで、『未来を紡ぐ深草の記憶』のデジタルアーカイブから、明治後期の勧進橋の写真をお借りします。

まずは、路面電車が通っているのに木橋であることに驚き。

そして、電車道と歩行者用通路が分けられている橋の左端に、あの石敢當と刻まれた珍しい常夜灯が小さく写っているではないですか。

鴨川沿いに進み、振り返ると現在の勧進橋。

かつての木橋は、今の橋の少し手前に架けられていたようです。

旧道を進むと、すぐに地蔵堂のある角でまた国道に合流。

今は細く水流の少ない東高瀬川を越え、

再び、国道から分かれて右手へ。

途中からは、東高瀬川に沿って歩きます。

高瀬川の上流は、木屋町畔を流れるあの情緒あふれる高瀬川ですが、ここでは少し趣が異なるようです。

それでも、コサギくんがのんびり散歩。

またまた国道24号線に合流すると、右手には「城南宮参詣道」の標柱。

すぐ西側にも道標。

左の低い道標には、「右 北向不動明王 左 城南宮道」とあり、どちらも鳥羽離宮の遺構に続く道であることが示されています。

この絵は、御香宮に残された車石の説明板にある、幕末に「竹田分道」を描いた『淀川両岸一覧 下』の絵になります。

竹田街道から鳥羽離宮跡に向かう道が分かれ、角には道標。

後ろには安楽寿院と愛宕山が見えていて、城南宮道との分岐から描いたものではないでしょうか。

雨にぬかるむ竹田街道では、牛が荷を積んだ牛車を引いています。

牛車の下には、車石が敷かれていたことでしょう。

近鉄京都線の高架下をくぐり、左にカーブする国道と分かれて直進します。

かつて奈良電鉄であった時代には、ここで路面電車と平面で交差していたようで、衝突事故が起きたこともあるらしい。

すぐに、「棒鼻(ぼうばな)」という印象的な名前の交差点。

かつて伏見領と竹田村の境界に支配境を示す棒杭が立ち、棒端(ぼうばな)とよばれたことに由来しています。

ここにも、「車輪形石」として保存された車石。

今の竹田街道は、棒鼻で左右二手に分かれていますが、東側の旧道を進みます。

道の脇には、旧街道らしく花崗岩の縁石。

その奥に敷かれている幅広の石板は、路面電車の廃止後に移された敷石なのでしょう。

純米吟醸 玉乃光」の酒蔵。

和歌山発祥の酒蔵ですが、創業は1673(延宝元)年と古い。

戦後の米不足の時代に、米と水だけで作る純米酒を復活させた蔵になります。

「土橋」で、伏見城の外堀にあたる濠川を渡ります。

町家の厨子二階の端には、何やら古そうな木製の字(あざ)名表示。

「字 土橋」の下はかなり消えていますが、「伏見(町)靑年(團)」とあるのでしょうか。

一番上には、旧伏見町の町章に「靑」の文字が書かれています。

本堂が市内最古級の真宗寺院である西養寺の前を過ぎ、

街道は、油掛通の角にある「駿河屋本店」に至ります。

このお店は、練羊羹の元祖として知られる駿河屋にあって、1781(天明元)年に諸大名の休憩所として開かれたお店。

街道側の店の隅には、「電気鉄道事業発祥の地」の石碑が立ちます。

竹田口からスタートした日本初の電車道は、ここが終点。

店の少し南には、宇治川派流に架かる京橋。

このあたりは、淀川を上ってきた多くの船が停泊していた伏見港の中心部になります。

港で荷揚げされた物資は、牛車で竹田街道を通り、あるいは高瀬舟で東高瀬川を逆のぼり、京都の街に運び込まれたのでしょう。

 

今回は、江戸時代に開かれた物流の道の痕跡と、明治になってそこに設けられた日本初の電車道の跡を辿りました。

また、面白い街歩きができたようです。

大規模町家の名残りと日本で最初に一方通行規制された道・東洞院通

今回は、日本で一番早く、享保年間から一方通行に規制された東洞院(ひがしのとういん)通を、北の端から歩いてみます。

右手に見える京都御苑の南端から、左に向けて通りはスタート。

洞院とは上皇法皇の居所のことで、平安京東洞院大路沿いには多くの院がありました。

そもそも、御苑の中心にある京都御所も、もとは土御門東洞院殿があった場所になります。

通り沿いの竹間公園にある、「名醫 吉益東洞宅蹟」の碑。

山脇東洋に認められた江戸中期の医師である吉益は、東洞院通沿いに転居し、「東洞」を名乗りました。

通りの名を、自分の名前にしてしまったようです。

人や物の通行が多かった古い通りには、そこらじゅうに地蔵堂が残ります。

こちらは、京都ではよくある住居に組み込まれた地蔵堂

江戸時代に一方通行になったのも、それだけ混雑の激しい幹線道路であったということでしょう。

御池通と交差する角までくると、蔵のある古い町家。

江戸時代に京で初めて他国(伊丹)の酒を販売した、旧丸岡屋の建物です。

店の妻面には、清酒の銘柄であった「嶋臺」の文字。

左隣は、巽蔵になります。

その西隣には、同じ経営で生糸を扱っていた旧北糸商店の町家。

旧丸岡屋の店舗や蔵と併せると、大きな町家です。

しかし、これは半分以上が取り壊された後の姿。

かつては、驚くほどの広さがある伝統的な町家建築だったようです。

軒上には、存在感のある「清酒 嶋臺」の木製看板。

現在は嶋臺ギャラリーとして使われていて、この日は書道展が開かれていました。

書道展にかこつけて、内部へ入れていただきます。

中庭の左手に見えるのが、古硯堂と呼ばれる書院。

京都では幕末に大火があったため、今の建物は1883(明治16)年に再建されたものになります。

鎮守神の台座には、平安京大極殿の礎石が使われているらしい。

書院の長押にある釘隠しには、桐の紋。

こちらの家紋なのでしょうか。

右に見えるのは、巽蔵。

旧丸岡屋の店内に残る相生井からは、今もきれいな水が湧き出していました。

 

御池通を越えて、南へ歩きます。

こちらの地蔵堂は、ビルに組み込まれている。

「高倉宮趾」には、後白河天皇の皇子であった以仁王の御所がありました。

以仁王は、令旨で平氏打倒を全国の源氏に促しています。

あの源平合戦の口火は、ここで切られたのでしょうか。

三条通と交差する角には、赤煉瓦と白い御影石コントラストが美しい旧京都郵便電信局、今の中京郵便局があります。

三橋四郎の設計で1902(明治35)年に竣工した建築が、日本初のファサード保存により残されています。

御影石の基壇は高く、重厚感を醸しだしています。

銅板葺きの凝ったドーマー窓も、印象的。

六角通を越えたところには、旧京都商工銀行の建物が残ります。

1908(明治41)年の竣工で、藤森松太郎の設計。

現在は、ファサード保存された建物を、京都市ウィングス京都として活用しています。

立派なイオニア式石柱に半円アーチ窓。

左右対称になって、美しく装飾された銅板葺きのペディメントもありました。

南に隣接する御射山公園には、見慣れない形状のラジオ塔。

かつて、日彰小学校の校庭に残されていたものらしい。

続いて、「画家呉春宅址」の石柱。

与謝蕪村円山応挙に学び、四条派の祖である松村呉春の自宅跡になります。

四条通に近いので、四条派なのですね。

昔ながらの風情で営業している、町家の倉田青果店

繁華街の中にあって、この形態を今も続けられているのが凄い。

こちらの辻医院は、六角形の柱が並ぶ昭和初期っぽい外観です。

四条通を過ぎると、悪王子社。

「悪王子」という言葉の響きが面白いですが、素戔嗚尊(すさのおのみこと)のことですよね。

今は八坂神社にある悪王子社の摂社になっていますが、もともとここに悪王子社は鎮座していたらしい。

祇園御霊会が始められたさいには、東洞院四条の辻より巡行の列を作ったようです。

佇まいが美しい、久保田美簾堂。

祇園祭の保昌山会所。

黒い板壁に描かれたロゴが面白い、「日本最古の絵具屋」・上羽繪惣。

1751(宝暦元)年創業で、初代はゑのぐや惣兵衛を名乗っていたようです。

昭和初期創業の呉服卸・石田愛商店は、1階は町家風ですが、上階は洋館になっている面白い造り。

洋館部分には、装飾タイルで飾られたアーチ窓。

1階の欄間には、きれいなステンドグラスも見られます。

仏具店の向こうに、東本願寺が見えます。

屋根越しに、京都タワーも見え始めました。

正面通の角からは、蔦に覆われたレトロ建築が見えます。

東本願寺の熱心な門徒が建てた、重信会館です。

入口の両脇にある丸窓の装飾グリルには、卍がデザインされているのでしょうか。

昭和初期の建築らしく、アールデコの特徴が良く出ているようでした。

塩小路通との交差点には、角が鋭角になったセレマビルと、その右奥には京都駅ビル

セレマビルの前には、「電気鉄道事業発祥地」の碑があります。

「明治二十八年」に京都電気鉄道株式会社によって、この場所から伏見下油掛町まで、初めて電車の営業運転が始められたようです。

東洞院通はここで終点ですが、ここから南にある伏見まで、日本初の電車道であった竹田街道として物流の道はさらに続いているのですね。

あっ、駅ビルに京都タワーがくっきりと映ってる。

 

日本で最初に一方通行となった通りでは、様々な時代の名残りに触れることができました。

通りの延長部分である竹田街道も、また歩いてみたいと思います。

城下町に残る和瓦の天主堂と舟屋の里・宮津から伊根へ

前回から、京都府北部の日本海に面した宮津市に来ています。

大手川沿いには、復元された宮津城の城壁。

大手川ふれあい広場には、宮津城主・細川忠興正室であった細川ガラシャの像が立ちます。

明智光秀の娘でありキリシタンであったガラシャは、関ヶ原の戦いのさい西軍の手に落ちることを拒み、家臣に首を落とさせた凄い人。

そのガラシャ像の向こうに、和瓦の屋根にステンドグラスが美しい教会堂が見えます。

見えているのは裏側ですが、裏門にも「カトリック宮津教会」とあります。

外壁は、白く塗られた下見板張り。

軒下には、小さなアーチが連続する軒飾り。

アーチ窓のステンドグラスは、今のものとは違い、木枠に色ガラスが嵌めこまれているのでしょうか。

棟には、十字架の鬼瓦。

薔薇窓にも、ステンドグラス。

隅に立つ小塔。

こちらが表側になります。

1896(明治29)年に、ルイ・ルラーブ神父の設計により建てられた教会堂は、長崎の大浦天主堂に次ぐ「日本で2番目に古いカトリック天主堂」と言われています。

正面に並ぶ、半円アーチ。

中央の薔薇窓は、補修工事中の様子。

半円アーチはロマネスク様式らしい。

和瓦の木造建築にロマネスク様式とは、まさに和洋折衷ですね。

妻の上部には、細やかな装飾とともに「天主堂」の文字。

この教会堂は、正しくは「宮津洗者聖若翰(ヨハネ)天主堂」と呼ばれます。

内部も見せていただきましたが、残念ながら撮影禁止。

今もミサが行われている畳敷の礼拝堂は、丹後産ケヤキの「こうもり天井」と列柱。

列柱には、御影石の基礎。

内側から見たステンドグラスがより美しいことはもちろん、外観にも増して圧巻でした。

天主堂前の道を西へ行くと、和貴宮神社があります。

境内では、楠の大木横に大きな岩がごろごろ。

この大岩は、かつてここが海辺であった跡らしい。

玉垣には寄進者の名前が刻まれ、江戸時代後期に北前船で財を成した、銭屋五兵衛の名前もありました。

その向かいには、地区の集会所として使われている宮本会館。

丹後震災後の1929(昭和4)年に建てられた、昭和初期の建築です。

破風の下を盛り上げ、その中央を削ったような独特のデザインが面白い。

宮津街道沿いに出ると、アーチ窓が並ぶ洋館。

1926(大正15)年に竣工した、産院である佐藤医院です。

2階には、2つずつ連なるアーチ窓が並び、中央には鋭角な破風。

破風は少し前にせり出し、よく伸びた植木の横からはトスカナ式のオーダーとバルコニーが見えます。

バルコニー部分の外壁は、石張りなのでしょうか。

柱にも、洋館らしい意匠。

歴史を感じるドアには、「本日休診」とありました。

調べると現役の産院のようですから、長く続けていただきたいものです。

 

せっかくですから、宮津市の北部へ足を伸ばします。

麓からケーブルカーで登り、「股のぞき」発祥の地として知られる笠松公園へ。

高台から天橋立を眺めて、さらに北にある伊根町を目指します。

伊根湾は、丹後半島にある小さな湾。

右奥に見える青島が湾の防波堤となっているため、年中浪の静かな入江のようです。

伊根町は、言わずと知れた舟屋の里。

海沿いにあり、妻側がこちらを向いている建物が、1階に船を格納してきた舟屋。

その奥にあり、平側がこちらを向いているのが、生活をする母屋です。

この3つ並ぶ舟屋の左端が、伊根で一番古い江戸時代からの舟屋らしい。

最近は船が大型化し、舟屋の前に係留していることも多いですが、この右端の舟屋は大きな船も格納できるように改築されています。

海岸沿いでは、こんな感じ。

右手の舟屋の裏に通りがあり、通りを挟んで左側に母屋が並びます。

伊根では、主屋や蔵の軒飾りに、「寶」の文字を掲げているところが多い。

「水」は他でもよく見かけますが、「寶」は珍しいですね。

公開されている舟屋の中から眺める伊根湾。

軒の向こうに、静かな入江を作り出している青島が見えます。

最後に、舟屋跡に建てられたカフェで一息。

穏やかな伊根湾に、陽が落ちて行きました。

 

あまり訪れることのなかった、京都府北部の町々。

京都市内とはまた違い、昔ながらの建築が多く残る楽しいエリアだったと思います。

宮大工が建てた板張りの教会と屋根に鯱がいる大衆食堂・宮津市

今回は、京都府北部の宮津市に来ました。

宮津は、日本三景の一つである天橋立で知られるところです。

ここは、宮津港まで近い浜町の交差点。

山の方面から来る道は、かつて福知山から宮津城まで続いた宮津街道になります。

交差点の南西角に立つ、宮津都市計画事業のモニュメント。

よく見ると、上に載るオブジェは新しいものですが、石柱や基壇の石は古い。

説明板を読むと、かつてここが海岸であった頃に船の安全を守ってきた、昔の常夜灯が活用されているらしい。

宮津は、江戸時代に北前船の寄港地として栄えた町でもありました。

交差点の北東には、元禄年間創業の旅館・清輝楼。

現在の建物は、1901(明治34)年に建てられた木造3階建。

著名な小説家や政治家が投宿し、文人墨客の宿と呼ばれています。

隣接する小さな福壽稲荷と、軒を接するように建つ清輝楼。

ここも、昔は海岸ぎりぎりに建っていたのでしょう。

少し西には、キセンバ港館。

港なので、「キセンバ」とは「汽船場」なのかな。

大正時代に、旧橋北汽船の本社として建てられたようです。

外壁は下見板張りで、縦に長い上げ下げ窓が並ぶ、大正期らしい木造洋館でした。

近くの新浜と呼ばれるエリアは、格式の高い花街があったところ。

四軒町の細い路地を行くと、今も風情のある建物が残ります。

あっ、路地の上にも住居。

祇園など他の花街でも、同様の構造は見られますよね。

新浜わくわく通りに出ると、検番があった場所に袖うだつが上がる建物。

うだつは本来防火設備のはずですが、ここでは何故か板張り。

千本格子の上に、組子細工のような欄間がある家屋もあります。

かつての花街に面した鮮魚店は、間口に対してかなりの奥行き。

昔は、料理屋などから多くの注文があったことでしょう。

またあった狭い路地。

ずっと奥に、「コーヒーの香りの流れる珈琲舘」があるようです。

新浜わくわく通りを東に抜けると、下見板張りの不思議な建物がありました。

洋館のようですが、鋭角な切妻屋根に、妻飾りとして懸魚に似たものが見られます。

玄関脇には、手書き文字で「日本聖公会 宮津聖アンデレ教会」の表札。

明治時代からこの地にある古い教会のようですが、現在の建物は1928(昭和3)年に丹後震災を受けて建て直したものらしい。

古い写真を見ると、破風の上に白い十字架があったようですが、今は見当たりません。

でも、目を凝らして見ると、玄関扉の上には十字架があるようです。

隣りの棟の屋根は、切妻屋根の角を切り落としたようなドイツ破風。

この素朴さが滲む建築には、いろいろと洋館らしく見せる工夫がなさているようです。

これを設計したのは、彦根の宮大工・宮川庄助と考えられているとのこと。

宮川庄助と言えば、

彦根にある、写真のように見事な和洋折衷のスミス記念堂が思い出されます。

竣工年は、宮津聖アンデレ教会のほうがスミス記念堂より3年早い。

宮大工であった宮川さんの洋風建築は、試行錯誤を重ねたようです。

こちらは、魚屋町通りにある中村眼科医院。

昭和初期の建築っぽい風貌で、木枠の窓が並んでいます。

右から「中村医院」と書かれた、木製看板が良いですね。

今は現役の眼科のようですが、2階には病室がたくさんあるようで、昔は大きな「医院」だったのかも知れません。

本町通りに面して建つのは、宮津市役所。

丹下健三門下である沖種郎の設計により、1962(昭和37)年に竣工しています。

1階部分を柱で支えた開放的なピロティと、その奥に広がる広場。

よく見ると、なかなかのモダニズム建築のようです。

その東側を流れる大手川。

対岸には宮津城の城壁が再現され、両岸を大手橋が繋いでいます。

大手橋の西詰には、背の高い「改造大手橋碑」。

1886(明治19)年に木造の橋を石造に架けかえたことを記念して、その2年後に建てられたものです。

市役所があるこの場所は、宮津城の大手門の門前にあたり、もともと目安箱や高札が設けられた公共の広場でした。

今も大手川沿いの広場に隣接して、旧大村邸の長屋門が残ります。

幕末には、藩医・小谷仙庵の武家屋敷でしたが、明治になって旧藩士の大村政智が譲り受けています。

面白いのは、小谷仙庵の次男も、大村政智も、自由民権運動に関わっていること。

すぐ近くには、京都の民権運動をリードした天橋義塾の中心人物である、沢辺正修や小室信介の生家跡もありました。

大手橋前の公共広場は、新しい時代を切り拓く人々を生み出してきたようです。

大手川の東岸には、宮津城の遺構である太鼓門が、宮津小学校の校門として残されています。

校地の隅には、古そうな地蔵や石塔もありました。

 

この後は、昼食を求めて宮津駅前へ。

駅の前に店を構える、昭和初期創業の「とんだ屋」さん。

なんだ、この風情は。

和風建築の屋根には、なんと鯱まで載っているではないですか。

垂幕には「大衆海の幸料理」とあり、古びたショーウィンドウの上には「大衆食堂」と書かれています。

海の幸料理が売りのようですが、大衆食堂なので何でもある様子。

ホルモン定食をいただきましたが、何と680円。

看板どおり、大衆食堂です。

店を出ると、天橋立を描いたマンホールも、落葉で美しく彩られていました。

 

腹拵えもできたので、もう少し宮津の街を歩いてみようと思います。

布目タイルのキャンパスと絵描き村の奔放な美術館・京都市衣笠

京都市北区にある、京福電鉄北野線北野白梅町駅

この日は、久々に参加する京都モダン建築祭を活用して、衣笠山の麓に広がる衣笠の街を歩いてみました。

駅の少し南にある「衣笠会館」。

元は、明治時代の紡績会社であった京都綿ネル創業者の一人、藤村岩次郎の自邸の一部です。

煉瓦建築ですが、木の隙間から、黒い瓦屋根がわずかに覗いていますね。

藤村は、広大な自邸に隣接して4,200坪もの住宅地を開発し、「衣笠園」と名付けています。

衣笠園とその周辺には、小説家・志賀直哉や日本映画の父・牧野省三が住んだほか、堂本印象、山口華楊、土田麦僊、木島櫻谷ら多くの日本画家が集まり、「絵描き村」が形成されていきました。

煉瓦造の洋館上部には、ディンティルと呼ばれる歯のように並ぶ装飾。

壁面には、欠円アーチの窓が並びます。

屋根裏に残されていた棟札。

「明治三十七年」に、「請負人鈴鹿彌惣吉」によって施工されたらしい。

大工の棟梁なのでしょうか。

階段と親柱。

重厚な暖炉のある洋室。

内部にも一部むきだしの煉瓦壁があり、開口部の角にはていねいにアールがつけられていました。

京福電鉄北野線を越えて、北に歩きます。

途中、「足利家菩提所等(持院)」への道標。

等持院は、境内に牧野省三が開いた日本映画黎明期の撮影所があったところ。

文化の香りが漂うエリアです。

その道標の後ろに、日本画家・木島櫻谷(このしまおうこく)邸はありました。

現在は、「櫻谷文庫」として保存されています。

和館内にそのまま残された、櫻谷の画道具類。

渋い階段まわりの向こうに、虎の習作が見えます。

和館から洋館に向かう道筋にも道標が立ちますが、「大佛三十三間堂」などと刻まれていて、他から移したものなのでしょう。

洒落た洋館のエントランス。

木の香りを感じる総ケヤキの螺旋階段。

やはり木で作られた天井の折上げ。

『獅子図』。

写生を基本とする四条・円山派の流れをくんだ、櫻谷の高い技量が感じられます。

北側の窓の向こうに、衣笠山を望むことができました。

平安時代宇多天皇が夏に雪が見たいと求め、山に白い絹を掛けたことから「きぬかけ山」と呼ばれた、優しい形状の山です。

木島櫻谷邸を出て、モダニズム建築の先駆者・本野精吾の私邸前を通り、

次は立命館大学衣笠キャンパスへ。

東門から入ると、富家宏泰設計の斬新な以学館があります。

壁面には、一枚一枚風合いが違う美しい布目タイル。

こちらは、かつて京都市南区に窯があった泰山製陶所の「泰山タイル」です。

衣笠キャンパスの学舎は、このような布目タイルで統一されているらしい。

修学館の、ちょっと渋めの泰山タイル。

旧図書館跡のモニュメントに残された泰山タイル。

学而館のタイルも美しい。

こちらは、啓明館。

どれも同じ布目タイルのように思うかも知れませんが、少しづつ異なる風合いを楽しむことができました。

北にある大学の正門に向かって歩くと、衣笠山がだんだん近づいてきます。

衣笠キャンパス正門の向かいには、その形状も壁面も華やかな堂本印象美術館。

堂本印象は、衣笠絵描き村の住人で、大正から昭和にかけて活躍した日本画家です。

壁面の中心から、こちらを見ているあなたは誰。

美の女神なのか、あるいは印象本人なのか。

門の横には、見たこともないような自由さを感じる庭園ベンチ。

この美術館は、建物や装飾のすみずみまで、印象自身がデザインしています。

存在感のある、他の何物にも似ていない玄関ポーチの柱。

エントランスの硝子戸取手にも、抽象画。

京都モダン建築祭で特別公開された応接室には、『美しい星座』が描かれています。

ステンドグラス『楽園』。

一つ一つ表情が違う、木製椅子背もたれのデザイン。

こうやって見ていくと、印象が日本画家であることを忘れてしまいそうになるほど、その表現は奔放です。

1949(昭和24)年に描いた『或る家族』。

ピカソらが始めた、キュビズムの手法が取り入れられているらしい。

3階にあるサロンへの、可愛らしい案内板。

エネルギーが手に伝わってくるドアノブ。

サロンからは、隣接する印象邸を眺めることができました。

日本建築ですが、印象の表現力が発揮されると、瓦屋根もまた躍動的になるようです。

 

京都モダン建築祭として見せていただいた、衣笠の街。

夏に雪を見るため山に白い絹布を掛けた衣笠山の麓には、アートな世界が広がっていました。

肉弾三勇士の欄間がある銭湯と御土居の西辺・鞍馬口通②

前回から、下鴨神社金閣寺を結ぶ鞍馬口通を歩いています。

高級絹織物の産地である、西陣の北端あたりまで来ました。

和製マジョルカタイル天国であった旧藤の森湯を後にして、西へと進みます。

ちょっと覗いてみたくなる、「自家焙煎珈琲 ガロ」。

右手には、「今宮神社参拝道」の標柱。

道の向こうに見える店舗も、なかなか渋そうですね。

まもなく、大きな石垣に囲まれた「船岡温泉」に出合います。

左手が銭湯入口で、右手には料理旅館「船岡楼」であった頃の外観が残ります。

船岡楼の竣工は1923(大正12)年で、船岡温泉はその附属浴場としてスタートしています。

前回見た旧藤の森湯と同じように、こちらにも立派な唐破風。

船岡温泉と旧藤の森湯は、どちらも庭石商であった大野松之助が始めたもの。

雰囲気が良く似ているのも、うなづけますね。

この二つの兄弟のような銭湯ですが、西陣の若旦那衆は船岡温泉の方を利用することが多かったようです。

破風上の獅子口には、「船岡温泉」の文字。

さて、ここからは京都モダン建築祭で公開された日の写真になります。

暖簾をくぐると、いきなり和製マジョルカタイルがお出迎え。

丸いのぞき窓には、アール・デコな意匠。

船岡楼であった当時のままの脱衣場には、古い時計と、マジョリカタイル、そして凝った彫刻が施された欄間の数々。

天井は、漆塗りの格天井で、天板はケヤキなのでしょう。

欄間には、京都の祭礼をモチーフにしたものもあれば、

上海事変のさい敵陣に爆弾を抱えて突入した肉弾三勇士も彫られています。

さく裂する砲弾や、漂う黒煙まで表現されているのがもの凄い。

天井中央には、色鮮やかな鞍馬天狗と牛若丸。

そして、様々な美しい和製マジョルカタイルの、

オンパレード。

和調の風景画タイルもありました。

随所に、かつての西陣の繁栄ぶりを感じ取ることができる、見事な空間です。

脱衣場と浴室を繋ぐ通路沿いには、錦鯉が泳ぐ池に架かる石橋。

この石橋の親柱には、「菊水橋」の文字。

元は千本鞍馬口にあった橋で、1932(昭和7)の市電開通にともない移築されたものらしい。

珍しい石橋の保存例なのかも知れません。

 

船岡温泉から、さらに西に向かいます。

浄福寺通と交差する角には、「建勲神社」の標柱。

この先には、清少納言も「岡は船岡」と書いている船岡山があり、織田信長を祭神とする建勲神社があるようです。

隣りの町家には、仁丹の琺瑯看板も見えます。

路地のむこうに見えるのが、船岡山

山とはいえ、標高は111mと低く、岡と言うほうが良い感じ。

坂道にある、年季の入った酒屋さん。

このあたりから西に向けては、意外な登りが続きます。

残された古い煉瓦塀の向こうに、まだ船岡山が見えます。

ここは北の端とはいえ、まだ西陣の一角。

ちょっと現代的な帯屋さんもあるようです。

千本通を越えますが、船岡温泉に残る菊水橋が架かっていたと思われる川は見当たりません。

でも、千本鞍馬口バス停の横に「歯ノ地蔵尊」という面白い名前の地蔵堂があり、この前を紙屋川支流である逆川が流れていたらしい。

今は、完全に暗渠化されて、その姿を見ることはできないようです。

千本通を過ぎても、道はやや北に曲がりながら緩やかに登り続けます。

左手には、街中では珍しい農機具店がありました。

仁丹の琺瑯町名看板によると、このあたりは「紫野上柏野町」らしい。

町名に、「紫野」と「柏野」と、洛北七野のうちの二つが使われているのも面白い。

魅力的な三叉路を右手に登ると、かつて三大風葬地の一つであった蓮台野へと向かいます。

基礎部分が煉瓦積の珍しい長屋を過ぎると、

また、三叉路。

右奥に向かう道は御前通になるので、このあたりに豊臣秀吉が築かせた御土居の西辺があったのでしょう。

鞍馬口通は、御土居の東辺も西辺も突き抜けていきます。

すぐに、金閣寺橋を渡ります。

橋の下を流れるのは、紙屋川。

この川は、街中の川としては異様に深い。

秀吉は、この紙屋川を御土居の堀として利用したのでしょう。

橋のたもとには、「地主辨財天」が祀られていました。

西大路通を越えます。

まっすぐ進むと、鹿苑寺つまり金閣寺の黒門に突き当たります。

下鴨神社から歩いてきた鞍馬口通は、ここで終点。

金閣寺の門前は、想定通りの賑わいでした。

 

鞍馬口通は、平安京の北外れにある通りのため、京都らしい真っ直ぐな道ではありません。

でも、かつての御土居の形跡や、西陣の栄華の跡を楽しむことができる、味わいのある通りだったと思います。