のら印BLOG

野良猫のように街を探索し、楽しさを発見するブログ

かつて上京と下京を繋いだ一本の道・室町通界隈

ちょっと古い話ですが、応仁の乱により衰退した京都の町は、政治都市・上京と、商工業都市・下京の二つの町に分かれてしまったことがあります。

その時代に、上京と下京を繋いだ唯一の道が、室町通でした。

京都駅や京都タワーの北側にある東本願寺

門前には、古そうな法衣店や、

400年以上続く念珠店などが並びます。

そんな東本願寺の北端を通る花屋町通から、室町通を北に向かって歩き出します。

応仁の乱後には京都のメインストリートだった室町通も、今見ると、このような細い通りです。

先ほどの写真の左手にある、「トユ 中村」の立体看板が、ちょっと面白い。

古い通りには、仁丹の琺瑯看板が良く似合います。

右上の住所表示が「下京區室町通楊梅下ル大黒町」。

左下のものは、「下京區楊梅通室町東入大黒町」。

同じ場所を指しているのだけれど、表記が統一されていない京都あるある。

そろそろ、呉服問屋さんが並び始めます。

京都で「室町」と言えば、江戸期から発展してきた呉服問屋街の代名詞。

あいにく、この日は室町通沿いで火災が発生。

仏光寺通から綾小路通間は、規制線が張られて通れませんでした。

良く見ると、消防車が停まっている四条・綾小路間だけは、道幅が広くなっています。

これは、大戦中に空襲による延焼を防ぐため、強制的に建物疎開が行われた名残り。

四条通を越えると、右側に「大黒菴武野紹鴎邸址」の碑。

千利休に影響を与えた茶道の先覚者、武野紹鴎の茶亭があった場所です。

説明板の石組には、紹鴎が愛した菊水の井の井桁組み石が使われていて、「菊水」の文字が残ります。

祇園祭の菊水鉾は、この井戸にちなんで名づけられたそうです。

錦小路通を越えると、1869(明治2)年に町衆の力で番組小学校として開校した、元明倫小学校。

現在は、京都芸術センターとして活用されています。

特徴的な八角形の門柱の後方には、円窓が並ぶ塔屋。

二宮金次郎の石像と、1931(昭和6)年に改築された校舎。

アーチ状の扉や、オレンジ色のスペイン風瓦がとてもモダン。

エントランス上部にも、テラコッタの意匠が残ります。

側壁にはステンドグラス、床にはタイルで八芒星が描かれていました。

すぐ北側には、「山伏山町家」。

祇園祭に登場する山伏山の保存会です。

かつて祇園会とよばれた京都を代表するこの祭りは、応仁の乱後に町衆の力で再興されました。

工業都市・下京では、今も住民の力によって祭りが支えられています。

蛸薬師通を越えると、今度は「鯉山」の保存会。

祭りが近づくと、これら保存会の前に山鉾が建てられます。

こちらは、1738(元文3)年に創業した、帯を扱う「誉田屋源兵衛」。

昔の室町通の雰囲気を、今によく伝えてくれるお店ですね。

三条通を越えると、「役行者山町会所」。

修験道の開祖に因むこの山の巡行では、山伏たちも随行するそうです。

あっ、帯屋さんの前を着物の女性が歩いています。

押小路通を過ぎたところにある、京菓子の「亀廣保」。

こちらの木製看板は斬新。

不定形の木製看板の右上から、これまた不思議な形の天然木が突き出ています。

なんと風流な看板と思ったら、あの姉小路にある干菓子型で縁取られた素晴らしい木製看板のお店、「亀末廣」から分かれたお店なんですね。

古そうな町家にあるのは、横に長い緑色テントの「COFFEEユニオン」。

テント下の隅には、煉瓦の壁と、銭湯にあるような黄金色した獅子の口。

これは、楽しげなお店じゃないですか。

広く落ち着いた店内で、「香り高い珈琲」をいただきました。

レトロな店内の照明は、船の舵を利用したものでした。

 

二条通を越えます。

江戸期には、この通りで上京と下京が分けられていました。

その角にある「三井越後屋京本店記念庭園」。

三井越後屋と言えば、今の日本では当たり前の「現銀(金)掛け値なし」商法を始めた、呉服店の代表格ですね。

この日は、剪定のため、門の前には植木屋さんの車が停まっていました。

車との隙間から写した門には、「丸に井桁三」の家紋。

瓦にも、やっぱり丸に井桁三。

その北にある、呉服問屋の「誉勘商店」。

初代当主となる勘兵衛が、誉田屋本家から暖簾分けされたのは、1751(宝暦元)年とのこと。

古い呉服店が続きます。

椹木町通を過ぎた右側には、「此附近 斯波氏武衛陣 足利義輝邸 遺址」の石碑。

室町幕府三管領筆頭であった斯波氏邸宅や、その後13代将軍足利義輝の将軍御所が置かれたところです。

また、下立売通と交差する角には、旧二条城跡の石碑。

この二条城は、今ある二条城とは違い、織田信長が自ら担ぎあげた15代将軍足利義昭の居所として、急ごしらえで作らせたもの。

発掘調査のさいには、石の地蔵も石垣に転用されていたことが明らかになっています。

これらの石碑は、平安女学院の敷地内にあるもの。

同じ敷地内には、1898(明治31)年竣工で古い煉瓦造の、聖アグネス教会もありました。

古い煉瓦といえば、こちらは出水通を越えたとことにある京都YWCAの煉瓦塀。

このあたりは近衛町ですから、江戸初期に日本で初めて「本屋」を名乗った本屋新七の書店があったあたりでしょうか。

中長者町通のところで、一本西にある新町通へちょっと寄り道。

一度訪れたかった「澤井醤油本店」がありました。

虫籠窓のある京町家の屋根に、細い煙突が立っています。

1879(明治12)年創業の店頭には、風情を感じさせる木製看板。

引き戸を開けると、圧倒される店内。

商品を陳列しているすぐ後ろに、いきなり大きく細長い仕込み桶が並びます。

間口の狭い京町家のため、大桶は縦に長い特製の仕様。

漂う深いもろみの香りに、心も満たされます。

奥に見える、煉瓦積みの煙突。

屋根の上の細い煙突に、繋がっているのでしょう。

石を敷き詰めた床面。

表には、「味自慢 マルサワ もろみ」の琺瑯看板もありました。

 

もう一度、室町通に戻ります。

一条通の角には、「(〇丹)本田味噌本店」。

暖簾にもある「丹」の文字は、丹波杜氏であった初代・丹波屋茂助の名前から来ています。

創業は、1830(天保元)年。

西京味噌」という名前は、白みその代名詞のように使われていますが、実はこちらの銘柄。

すぐ近くにある御所の用命を受け、宮中の料理用味噌として作られたものです。

店内には、「禁裏御所 御臺所御用控」や、御所出入の許可証なども残されていました。

もう少し進むと、今出川通と交差する角に理髪店。

その丸い柱の陰に、ひっそりと「従是東北 足利将軍室町第址」の石碑。

この碑の北東部分に、足利将軍邸である「花の御所」がありました。

言うまでもなく、ここから室町幕府の呼び名がついています。

しかし、その名残りは、今はほぼありません。

東の方には、同志社大学京都御苑の森が見えます。

 

室町通りは、昔ながらの呉服問屋や町衆による活躍の跡が残る下京と、室町幕府の遺址が残る上京を繋ぐ、細い通りでした。

今は静かな通りですが、京都の歴史の断面を垣間見ることができる、味わい深い通りでもありました。

野漠の窪地と広大な長屋街の名残り・空堀商店街界隈

前回訪問したばかりですが、また大阪市中央区にある空堀商店街に来てしまいました。

大阪大空襲で焼け野原となった大阪の中心部で、奇跡的に焼け残った空堀通にある、戦後すぐからの商店街です。

ここは上町台地の北西のへりですから、もともと大きな段差があるところ。

そして、大阪冬の陣までは、「空堀(からほり)」とも呼ばれる大坂城の大きな外堀、つまり凹みがあった場所です。

でも、この空堀は、冬の陣後の和議条件として徳川方により破壊され、埋められています。

その後、大阪城の再建時より、瓦土を採取するために200年以上も掘り続けた結果、「野漠(ノバク)の窪地」ができてしまいました。

空堀商店街周辺は、いくつもの理由で凹凸がやたらと多い、興味深いエリアです。

今回も、商店街の西端からスタート。

通路は、カーブしながら登っていきます。

これは、上町台地のへりにある尾根道を、空堀通が通っているためでしょう。

「鰹節」の看板を掲げた、1765(明和29)年創業の老舗鰹節店の「丸与」。

この地域で進められている町家再生の動きを受けて、こちらに移ってこられたらしい。

古い町家の活用により、違和感なく老舗の風情を醸し出しているようですね。

交差する御祓筋。

北に向けて、ゆるやかに下っていきます。

少し北へ行くと、板張りの外壁が印象的な「大大阪藝術劇場」。

今に残る明治期の長屋を活用した、フリースペースのようです。

商店街北側にあたるこの辺りは、すでに「野漠の窪地」の一角。

瓦土を取り終えた広大な窪地には、軒を寄せ合うように長屋が建てられていきました。

野漠の広さは、甲子園球場2つ分よりも広かったようですから、大きな長屋街が形成されたことでしょう。

その先には、住民の表札が掲げられた、長屋の入口にあたる路地。

この奥の長屋には、猫カフェがあるようです。

古典落語「らくだ」の舞台にもなっている、野漠の長屋。

登場人物の熊や紙屑屋も、長屋に猫カフェがあると知ったら驚くでしょうね。

立派な連棟式の家屋もありますが、これも長屋の一種なのでしょうか。

一部は、おしゃれな居酒屋として活用されています。

あちらこちらに、古い家屋の風情を活かした、新しいお店。

町の活性化に、ずいぶんと力を入れているエリアだということが良く分かります。

でも、活用を待つ間、老朽化を防ぐために覆いをかぶされた住宅や、

住人がいなくなった長屋も無いわけではありません。

奇跡的に戦火をくぐり抜けたこの地域には、大戦時の面影を見ることもできます。

長屋の前に残された防火用水。

空襲への備えだったのでしょう。

こちらの2階部分は、空襲時の延焼を防ぐために、銅板で覆われています。

棟続きの隣家は、すでに破却されたのかな。

時の流れを感じさせてくれる、長屋街の六角堂といった佇まいがすばらしい。

 

商店街に戻ります。

前回の訪問時に、楽しい絵を描いたシャッターが下りていた「ぬのめ鮮魚店」は、今日は営業中。

お客さんが並んでいます。

次に商店街と交差するのは、善安筋。

窪地への坂を下ると、前回も見た「空堀通の崖」。

この石垣は大阪城空堀のものではなく、瓦土の採取後に積み上げられたものでしょう。

少し先には、アートな長屋の入口。

路地を抜けると、中庭の井戸を囲むようにして残る長屋がありました。

桃園公園の前あたりから、商店街のアーケードを振り返ります。

この辺りは、地面がかなり低くなっている、たぶん窪地の底。

ものすごい量の瓦土が、削りとられたのでしょうね。

公園のお隣は、空堀で生まれ育った大衆小説家・直木三十五の記念館。

白い壁からこちらをじっと見ているあの人は、そう、あの直木賞の直木さんですよね。

芥川賞芥川龍之介と較べると、人物像について、あまり知られていないのかも。

中に入ると、美しいステンドグラス横の壁面に、歴代の直木賞受賞作品が並べられています。

静かな展示室。

無頼で破天荒な人生だったようですね。

 

また、商店街に戻ります。

雰囲気のある「道勝cafe」の横にある路地の先は行き止まり。

窪地との段差に、行く手を阻まれてしまいます。

こちらは、創業以来百有余年の「こんぶ土居」。

大阪の出汁文化を支える、昆布のお店です。

横にある郵便ポストの角を、野漠とは反対側の南へ曲がります。

少し歩いて東側にある狭い路地に入ると、

住宅の隙間に、突然の窪地。

これは、位置から考えて、大阪城空堀跡と考えられている場所。

空堀は、徳川方によって一度完全に破壊されていますので、石垣は後の時代に積み直されたものでしょうね。

商店街に戻ると、「南区 南空堀町」と書かれた仁丹の琺瑯看板を発見。

「南空堀町」とありますが、現在は「谷町6丁目」。

「南区」は1989(平成2)年に廃止され、「中央区」になっています。

一度、アーケードを出て、広い谷町筋を越えます。

谷町筋を越えると、ふたたび短いアーケード。

アーケードの東端には、思わず入りたくなる「大衆食堂 スタンド そのだ」。

お腹もすいていたので、ちょっと休憩。

店中には、白いタイル張りのカウンターと、壁にある横長の樹脂製メニュー表。

貝出汁のおいしい中華そば定食に、ルーロー飯をトッピング。

手作り感にあふれていて、美味しくいただきました。

店の東側の道には、遠く熊野三山につながる「熊野街道」の道標。

熊野街道沿いにも、2階に銅板を張り巡らせた、大戦中の住宅が残っていました。

おやおや、空堀通にある「そのだ」の南西にも、大きな窪地。

窪地側から見上げると、煉瓦造の地階部分が1階となり、2階建ての木造家屋が3階建てになっています。

家の前には、旧町名継承碑がありました。

ここは、かつては「南桃谷町」と呼ばれていたとのこと。

ということで、この窪地は通称「桃谷の窪地」。

野漠の飛び地のようにして、ここからも瓦土が搬出されたようです。

本当に凸凹しているエリアですね。

 

最後に、谷町筋方面から北西を歩いて、「野漠の窪地」の東端と北端部分を見ておきます。

野漠の東端にある「観音坂」。

やっぱり凹んでいますねえ。

北端にある、榎木大明神下の坂。

やっぱり凹んでいる。

榎木大明神のすぐ北側を、旧熊野街道が通っていました。

左奥から来て、大明神のあるこの角で直角に曲がって右奥へと続き、さらに先で右方向に曲がります。

大きな窪地を作った瓦土の採取は、この旧熊野街道を避けるように行われていたようです。

 

大阪の中心部にありながら、さまざまな理由による起伏の激しい地形。

空襲を免れたことにより残る、かつての長屋の風情。

古い町家を活かして進められる、新しい街づくり。

空堀では、興味に突き動かされて、刺激的な街歩きができました。

 

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上町台地のへりとノバクの窪地・生玉寺町から空堀商店街へ

大阪の町は平地のように思えますが、その真ん中には、北の大阪城から南の住吉大社に至る南北9km、東西2kmの上町台地が伸びています。

今回は、地下鉄の四天王寺前夕陽ヶ丘駅から、上町台地の北西のへりを歩いてみます。

駅西側にある真光院の門前には、「聖徳太子御直作 六万体地蔵尊安置」の石柱。

面する谷町筋にある「六万体」という面白いの交差点の名前は、ここから来ているようです。

このあたりから、少し西の通りに入ると、生玉寺町筋に出ます。

豊臣秀吉の時代から江戸時代にかけて形成された寺町には、道の両側にたくさんの寺院が軒を連ねます。

その中に、突如奇抜なデザインのファッションホテルが割り込んだりしているのも、懐の深い大阪らしい光景なのかも知れません。

道の左側には、「源聖寺坂」の駒札。

先へ進むと、落ち着いた石畳の下り坂がありました。

ここは、上町台地のへり。

南北に走る上町断層に並行して、大きな高低差が見られます。

生玉寺町筋を北に進むと、生國魂(いくくにたま)神社に行きあたります。

生國魂神社は、『日本書紀』にもその名が記され、難波宮の造営以前からあったと考えられる、大阪を代表する古社。

大阪では、「いくたまさん」と親しく呼ばれています。

境内には、「上方落語發祥の地 米澤彦八の碑」。

説明板によると、江戸初期の生國魂神社には、太平記読み、芝能、萬歳、人形繰りなどの芸能者が蝟集していたとのこと。

その中で、米澤彦八の芝居物真似や軽口咄が人気を集め、この彦八咄が上方落語のルーツとなったようです。

浮世草子作者である井原西鶴の像もありました。

俳諧師でもあった西鶴は、この境内で、一昼夜に4000句独吟達成の記録を残しています。

浄瑠璃神社などもあって、「いくたまさん」は、上方芸能とのただならぬ関わりの深さを感じさせる神社でした。

生國魂神社を北に抜けようとすると、また急坂。

この神社のあたりで、台地の標高は約22mだそうです。

この坂の呼び名は、明治初頭まで真言宗の寺院が並んでいたことから、「真言坂」。

千日前通を越えて、上町台地のへりを、さらに北へ向かいます。

「オレンチ」というバーに掲げられた黒板には、「生きてるだけで精一杯」。

うん、そうだよねえ。

お隣のお寺の門前には、「私は オータニさんや藤井名人にはなれないが 私の人生は私だけのものだ」。

ふむふむと、勇気づけられながら進みます。

上町台地から下ってくる地蔵坂に突き当たりますが、次の角を左折してさらに北へ。

緑色の瓦に、タイル張りの柱のちょっと目につく建物発見。

良く見ると、入口の上には「金甌(きんおう)会館」の文字。

金甌とは、金の瓶のことで、この地で発掘されたことに由来しているようです。

それにしても、「甌」に使われている「瓦」の文字が気になります。

というのも、このあたり一帯は「瓦屋町」。

江戸時代に瓦職人が集住して、大量の瓦が生産された場所です。

「金甌」とも、何らかの関係があるのかも知れません。

恐竜のいる角を越えると、向こうに商店街のアーケードが見えてきます。

アーケードに入る手前には、壁面にタイルを張った木造3階建てのレトロな筆屋さん。

もう、閉店されているようです。

横からアーケードに入りましたが、ここは空堀通に沿った空堀商店街の西端。

空堀(からほり)」とは、かつて大坂城の南西を守った、水を入れない大きな外堀のこと。

南惣構堀とも呼ばれました。

大坂冬の陣の後、この外堀に苦戦した徳川方が、豊臣方に和議の条件として堀を埋めることを提案し、空堀は徹底して破壊しつくされたようです。

商店街の西端から、東に向けて坂を登ります。

やはり、ここも上町台地のへり。

商店街の通路ですが、結構な勾配があります。

ユニークなお好み焼き屋さんの、「〇△▢焼 冨紗屋」。

表の掲示を見ていると、あの松田優作さんが愛したお店のようです。

楽し気な「ぬのめ鮮魚店」は、この日はお休みでした。

おやっ、おしゃれな雑貨屋さんの角に、何やら古そうな石柱が傾いて立っている。

こちらがわには、丸に十の字の紋と「錦屋( ) 同( )」と書かれているようです。

側面には、「奉献 御( ) 廻( )」。

下部が埋もれていて読めません。

調べてみると、ここから南へ続く坂は、金毘羅坂と呼ばれていたらしい。

どうも、この石柱は今は残っていない金毘羅宮への道標だったよう。

向かいには植木に挟まれて、「百度石」も残されています。

側面を見ると、1788(天明8)年に建てられたもののようでした。

商店街の北側にあるカフェの横には、石畳の細い路地。

やはり商店街の北側にある、カレーがおいしい「旧ヤム邸」の角。

善安筋とよばれる道が、北に向かって大きく下って行きます。

少し進み、かわいい外観のレストラン「たまごのたまこ」の角を曲がると、

石垣が積まれた大きな高低差。

空堀通の崖」と呼ばれている場所です。

空堀通のすぐそばですが、大阪城空堀跡ではないようです。

空堀は、大坂冬の陣の後に徹底して破壊されたはずですし、位置的にももう少し南にあったはず。

石垣の一部には、丸い手水鉢も転用されています。

下水管は、今では貴重な茶色い陶器製の土管。

このあたりの高低差は、さらに大きいようです。

この辺りが、「ノバクの窪地」と呼ばれるエリア。

空堀通北側の西は松屋町筋、東は谷町筋に挟まれた長方形の広大な一帯が、大きく窪んでいます。

「ノバク」とは聞きなれない言葉ですが、漢字で書くと「野漠」。

野原の土砂漠といった感じでしょうか。

この地は、大坂の役後に徳川氏が大坂城を再建するさい、大量の瓦を焼く必要があったため、瓦土を掘った場所になります。

その後も200年以上にわたって上町台地のへりを掘り続けた結果、一帯は荒涼とした野漠になったとのこと。

そういえば、空堀通の南側一帯は、瓦を生産していた「瓦屋町」でしたよね。

 

「ノバクの窪地」には、今も至るところに狭い路地が残ります。

瓦土を採取した後、窪地に無数の長屋街が形成されていった名残りなのでしょう。

それらの長屋街の今は、どうなっているのだろう。

また、空堀商店街周辺は、土地の凹凸の多さが街歩きの魅力をかきたててくれる場所でした。

でも、それぞれの凹凸が、上町台地のへりであるためなのか、瓦土を掘り出したためなのか、あるいは空堀の名残りなのか、謎は残ります。

空堀商店街周辺は、また訪問したくなる、興味が尽きない場所でした。

 

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古代からの面影を残す大阪の街・四天王寺周辺

大阪で、古い時代の面影を最も残しているのではと思われる町に来ました。

大阪市営地下鉄谷町線四天王寺夕陽ヶ丘駅です。

駅名にある四天王寺は、天王寺の地名の元になった古い寺院。

今回は、その四天王寺界隈を巡ります。

あっ、来年の大阪万博に備え、駅前の舗石を切り取ってミャクミャクマンホールに交換しましたね。

駅前を通る旧熊野街道

電柱の陰の飛び出し坊やは、聖徳太子ですよ。

こちらは、「岩崎太子堂薬局」。

大峰山の開祖である役行者が製法を伝えたと言われ、胃腸に効くとても苦い生薬の陀羅尼助丸を扱っています。

袖うだつの上がる、釣鐘まんじゅうの「総本家 釣鐘屋」。

2階には、寺院のような火灯窓が並びます。

庇の上には、銅製の釣鐘まで。

1900(明治33)年創業のこのお店では、同じころ四天王寺につるされた世界最大の釣鐘を、名物としたようです。

(総本家釣鐘屋HPより)

ただ、この鐘は、大戦中の金属回収令により供出され、今はありません。

サイズは世界最大ではありませんが、懐かしい味の釣鐘をいただきました。

 

熊野街道が途切れるあたりから、南東に続く道へ。

四天王寺の飛び地にある、庚申堂に行きあたります。

針中野で歩いた庚申街道は、ここへの参詣道だったのですね。

山門前の石碑には、「本邦最初 庚申尊」。

その下の文字は塗りつぶされていて、訳ありなようで気になります。

秘仏とされている本尊・青面金剛童子は、701(大宝元)年に起源があると伝わるそうで、これは古そう。

手水舎の水盤にも大きく「庚申堂」。

1768(明和5)年に奉納されたようです。

本堂などは大阪大空襲で焼かれていますので、この水盤も戦火をくぐっているのでしょう。

庚申堂を出た南側の角には、いかにも古くから続いていそうな井戸。

街中ですが、井戸からは、こんこんと水が流れ出しています。

「谷の清水」と呼ばれる名水らしく、横には清水井戸地蔵尊が祀られていました。

この井戸のある窪地は、8世紀に和気清麻呂が23万人を動員して完成させようとして頓挫した、河内川開削工事の跡と考えられているようです。

北に歩くと、超願寺の門前に、「竹本義太夫墓所」の碑。

竹本義太夫といえば、近松門左衛門が座付作者となった浄瑠璃の竹本座を始めた人物。

義太夫節は、浄瑠璃の代名詞ともなっています。

どこかなと墓地の中を探すと、ありました。

でも、墓石が妙に新しい。

代々の墓石が傷んだため、10年程前に新しく建て直したようです。

さらに北へ進むと、見えてきました。

ビルの向こうに、四天王寺の南大門。

その真後ろには、五重塔も見えます。

南大門の前には、「日本佛法最初四天王寺」の大きな石碑。

建立されたのは、年号がまだなかった593年。

聖徳太子による建立で、蘇我馬子飛鳥寺とともに、本格的な日本の仏教寺院としては最古のものだそうです。

宗派は、和宗という聖徳太子にちなんだ独自のもの。

南大門をくぐると、まず中門、続いて五重塔が、きれいに一列に並びます。

境内の案内図を見ると、このとおり。

金堂も講堂も一列に並び、それを回廊で囲んでいます。

これが、「四天王寺式伽藍配置」とよばれる、日本で最も古い建築様式らしい。

南大門から入ると、まずは熊野権現礼拝石がありました。

すぐそばを通る旧熊野街道は、天満橋近くの渡辺津から熊野三山に詣でる古い街道。

昔の人たちは、この場所で、熊野までの道中安全を祈ったのでしょう。

左右に仁王像が立つ中門は、錣(しころ)屋根とよばれる、二段構えの面白い構造です。

この日の境内では、「青空大古本祭」。

掘り出し物がありそうでしたが、重くなるので購入できませんでした。

四天王寺といえば、亀の池。

もっと晴れている日なら、山盛り亀さんの甲羅干しが見られそうです。

亀の池に架かる、日本三舞台の一つ石舞台。

石舞台から来た方角を振り返ると、両端に鴟尾のついた錣屋根の講堂のど真ん中に、五重塔の相輪が見えます。

やっぱり、整然と並んでいますね。

江戸初期に建立された、重要文化財の六時堂は、現在改修中でみることができません。

そのほとんどが室戸台風や大阪大空襲によって失われた四天王寺ですが、この六時堂や本坊は生き残ったとのこと。

本坊の前には、「下馬」の石柱が残ります。

境内北端には、日本における活版印刷の先駆者・本木昌造の像が立っていました。

まわりにビルがなかった頃は、良く目立ったことでしょう。

面白い形をした、融通地蔵の香炉。

香炉の上部には、「信仰は人の道から先に」の透かし彫り。

そうですよねえ。

人を後回しにする信仰って困ったものですよね、と思いながら四天王寺を後にしました。

 

お腹もすいてきたので、近くの「マルミヤ食堂」へ。

タイル張りの外観と、たくさん並んだ値段表。

かなり良い感じの大衆食堂ですね。

内観も期待通り。

定食には、いろいろ小鉢も付いて、美味しくいただきました。

 

食堂もまた、昔ながらに落ち着いている四天王寺界隈。

はるか飛鳥の時代から昭和に至るまで、さまざまな時代のレトロ感が随所に残る、魅力的な街でした。

旧造船所界隈にアートが氾濫する街・大阪北加賀屋

大阪市営地下鉄四つ橋線北加賀屋駅に来ました。

北加賀屋は、大阪市住之江区にあり、かつては造船業で栄えた町です。

駅前の歩道では、さっそく黄色く円らな瞳のあひるマンホール発見。

これは珍しい。

大阪市のマンホールは、通常、あひるの部分に大阪城が描かれているんですがね。

この可愛いあひる君は、何者なんだろう。

駅からは、大阪湾に注いでいる木津川河口方面に歩きます。

工場街を抜けると、古い大きな建物のコンクリート壁に描かれた、楽し気な壁画。

人も、不思議な生き物たちも、仲良く手をつないでいます。

建物のゲートに行きあたりました。

錆びが目立つ建物の屋上に、「名村船渠」の金網看板。

「船渠」って聞きなれない言葉ですが、造船所のドックのことですよね。

ここが、名村造船所跡のようです。

ゲートの左側にも、タッチの異なる壁画が続きます。

いたいた、さっきのあひる君が、横を向いています。

ゲートの水色の重そうな鉄扉には、「木津左6号」の文字。

壁画が描かれていたコンクリートの壁は、ただの塀ではなく、木津川に面して設けられた防潮堤のようです。

高潮や津波が来たときには、この重そうな鉄扉が閉められるのでしょう。

警備員室があったので、中に入っても良いか尋ねてみました。

一度は立入りを断られましたが、少し間をおいて「実は今日はこの後に見学会が予定されていますが、参加されますか」とのこと。

さっそく、会の主催者に連絡をとってくださいました。

なんとラッキーなことでしょう。

黄色いあひる君が、幸運をもたらしてくれたのでしょうか。

警備員室の窓の横には、水色の水位を表すシールが。

これは、2018年に猛威を振るった台風21号のさいの、防潮堤内の水位を示しているそうです。

大阪市教育委員会によると、名村造船所船渠跡は、大阪市顕彰史跡になっているそうです。

工場配置図を見ると、船渠(ドック)は2つ、船台が2つあったようです。

ドックの横にも、色彩あふれるアートがありました。

ここから、見学会に参加させてもらいます。

名村造船所跡は、クリエイティブセンター大阪として、舞台公演、音楽ライブ、映像上映など、さまざまに活用されているとのこと。

4階から見た、壱号船渠。

こちらは、弐号船渠。

〔『北加賀屋レポート』近代化産業遺産(名村造船所大阪工場跡地)を未来に活かす地域活性化実行委員会発行より〕

見学会でいただいた資料には、この弐号船渠に浮かぶ、巨大な黄色いあひるの写真がありました。

高さは9.5mもある、ラバーダック

オランダのアーティスト、F・ホフマンの作品だそうです。

このあひる君、君がどうやら北加賀屋のヌシだなあ。

4階にある、原寸大の船の図面を描くための原図室。

大きな図面が引けるように、柱はありません。

床には、引いた図面の跡が残ります。

木津川の向こうには、戦前から続く中山製鋼所の高炉。

資料室に残された、往時の写真。

ドックも船台も木津川も、船で満杯。

たくさんの労働者が、とてつもなく暑い過酷な環境の中で、汗を流していたのでしょう。

ドック横に並ぶ椰子の木。

これは、社長の趣味だったようですね。

椰子の木横の建物は、現在大阪城ホールなどのリハーサルスタジオとして活用されています。

楽屋には、所狭しとアーティストのサインが並びます。

これは、忌野清志郎さんのもの。

ドックの先端部横に残された、係船柱と餅つき機。

進水式では、大量の餅を撒いて祝ったことでしょう。

 

見どころの多かった造船所跡を出ます。

向かいのマンションの前には、これまた巨大な鉄のオオサンショウウオ

その隣には、かつて造船所の労働者が暮らしていた「白馬荘」、「乗鞍荘」、「穂高荘」が並びます。

今は、初期費用は一切なしで、家賃は18800円から。

大阪市内とは思えない、破格の物件ですね。

この街では、行く先々にウォールアート。

チョコレートのお菓子でも、たこ焼きでもありません。

未来の植物をコンセプトにした作品です。

こちらは、造船労働者が暮らしていた文化住宅を改造した、「千鳥文化」。

中央は、ガラス張りで開放的な「千鳥文化食堂」。

木の温もりを生かした内装。

カップやコースターも、ちょっとしたアート。

こちらの仕掛け人は、北加賀屋に多くの土地を所有する「千島土地(株)」。

一般財団法人おおさか創造千島財団として、アートな街づくりを支援されているようです。

発行されている「KITAKAGAYA カオスマップ」。

北加賀屋の街歩きにとても便利で、千鳥文化に置いてあります。

千鳥文化裏側にある「みんなのうえん」。

自転車のホイールで作られたゲートが楽しい。

また、いたいた、北加賀屋のヌシくん。

こちらにも食べかけのドーナツのような壁画。

マンションの壁で、鏡を覗き込む少女。

賑やかな民家の壁。

あーっ、モナリザウォーホールのマリリンに落書きしちゃ駄目だぞー。

植物に覆われた、「Air Osaka hostel」。

古い旅館を改装したようで、残された「旅館」のネオン看板が良いですね。

この街では、アートが生活の一部になっているようです。

隅々まで目を離すことができない、なんとも楽しい街づくりの工夫。

北加賀屋は、町猫も思いっきりくつろげる、居心地の良い街でした。

冥界との境を越えてゆく元五条通・京都松原通

京都の町を東西につらぬく松原通は、近くの四条通三条通と比べて、華やかな通りではありません。

しかし、豊臣秀吉が町を改造するまでは、この通りが本来の五条通でした。

かつては、平安京の五条大路であり、清水寺への参詣道としても賑わっていたようです。

新町松原にある松原道祖神社。

平安期の『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』にも登場する小さな道の神が、今もポツンと残っています。

長い間、通りを行き交う多くの人々の、旅の安全を願ってきたのでしょう。

今回は、ここから清水寺のある東に向かい、昔の旅人のように歩きます。

烏丸松原近くには、こちらも平安期から残る因幡薬師。

正しくは、平等寺という真言宗智山派の寺院です。

本堂は幕末の動乱で焼失した後に再建されていますが、本尊の薬師如来は日本三如来の一つとされています。

香炉の煙が立ち込める中、お堂には金色の扁額のようにして、薬師如来のミニチュアが掲げられています。

額縁には細かい龍の彫刻がほどこされ、如来の上には天蓋。

懸仏(かけぼとけ)というのでしょうか、珍しいものかも知れません。

「西光組」という講中が奉納したようです。

 

東洞院松原には、黒壁の側面に描かれた大きなロゴが面白い、「上羽繪惣」。

今は胡粉ネイルが主力商品のようですが、1751(宝暦元)年創業の日本画用絵具屋さんです。

間之町松原にある、俳諧の先駆者であった松永貞徳の花咲亭址。

堺町松原には、あの『源氏物語』に登場する夕顔の墳、つまりお墓がありました。

フィクションの登場人物のお墓が、長く守られているとは面白い。

さすがは、かつて多くの旅人が利用した旧五条通り。

周辺には、昔の観光スポットがたくさんあるようです。

少し東へ行くと、「製菓原料商 伊藤重老舗」の袖看板。

良く見ると、1階部分の側面にも古い文字が残ります。

「うるし 加藤小兵衛商店」は、江戸後期から続いています。

富小路松原にある「銅器商 西村商店」の木製看板。

1885(明治18)年創業の西村松寿堂です。

 

麩屋町松原の角には、明王院不動尊

今は小さな寺院ですが、創建は平安京より古いそうで、本尊は空海作の石像不動明王です。

平安京造営にあたり、桓武天皇は京の東西南北に4つの磐座(いわくら)を定めましたが、ここはその一つ。

確かに、扁額には「南岩倉」とあります。

こちらの奉納額にも、「西光組」とありました。

因幡薬師に懸仏を奉納した講中と同じですね。

明王院の前には、中世の松原通の古地図が示されていました。

通りの両側には、松並木が続いていたことが分かります。

寺町松原には、大きな数珠がいくつもつるされた町家に、「中野伊助」の木製看板。

創業は1764(明和元)年と古く、念珠生産が多い京都にあっても、最も古い念珠屋さんのようです。

河原町松原には、「きもの丸洗い しみおとし」のレトロな看板も。

高瀬川を越えると、

全面タイル張りの、看板のないお店があります。

でも、2階の開いた窓から見える「すば」の提灯。

ガラス戸の中には、たくさんのお客さんの姿。

この辺りではちょっと珍しい、そしてちょっと高級な立食い蕎麦屋さんです。

いそいそと入店し、京菊菜天の蕎麦800円に温泉玉子トッピングを注文。

注目は、温かくおいしい蕎麦の下に見える黒いテーブル。

お客さんが多くて全体は写せませんでしたが、大きなテーブルは味のある陶器製でした。

鴨川に架かる松原橋、つまり元の五条橋を越えます。

鴨川を越えると、細い通りの向こうに清水寺のある東山が見えます。

先ほどの中世の古地図では、このあたりに平安期の陰陽師である安倍清明の塚があったようですが、今は見当たりません。

右手に、子育地蔵尊やちょっと怖い「九想図絵」のある、西福寺がありました。

小さなお寺ですが、平安初期に創建されています。

その角に立つ「六道之辻」の石柱。

このあたりが、仏教でいう地獄道・餓鬼道・畜生道阿修羅道・人道・天道の分かれ道、つまり冥界の入口ということらしい。

実際、かつてはここから南東にかけて、京都最大の葬送地・鳥辺野が広がっていました。

墓を作ることのできなかった当時の一般の人々は、長くこの地で、チベットのように風葬や鳥葬されてきたのでしょう。

石柱の南側には、六波羅蜜寺

市の聖とよばれた空也上人が、疫病が蔓延する平安中期に開いたお寺です。

高校生の頃に歴史の教科書で見た、南無阿弥陀仏を意味する6体の仏が口から出ている衝撃的な空也上人像は、このお寺のものです。

またその後、栄華を誇り滅亡していった平家一門が拠点とした場所でもあります。

石柱の向かいには、「幽霊子育飴」の看板がある、みなとや幽霊子育飴本舗。

こちらのお店では、土中に葬られた女性が幽霊となって夜な夜な飴を買い求め、墓の中で子を育てた話が450年以上語り継がれているとのこと。

日本一歴史があるらしい飴屋さんの、六道の辻らしい話ですね。

その2軒お隣には、「菱六もやし」。

えっ、六道の辻に、庶民の味方のあの野菜?

いや、ちょっと違うようです。

こちらは、現在の当主が何代目かもわからないほど古いお店。

ただ、他の店が江戸中期に書き残した書に名前が出てくるので、少なくとも創業300年以上だろうと推測されているようです。

風雨に晒されたその木製看板の風情たるや、すばらしい。

「京都 (◇に六) 根源 麹種もやし」。

「もやし」とは、麹をつくる元の菌のこと。

これがなければ、お酒はもちろん、味噌も醤油もできません。

まさに、日本の伝統調味料の「根源」なのですね。

 

少し東へ歩くと、また木製看板。

「京のり染料」と書かれた足立顔料店です。

この街並みに違和感なく掲げられた、スーパー「ハッピー六原」のどこか懐かしい看板。

 

そして、左側にまた「六道の辻」の石碑がありました。

六道珍皇寺の山門です。

山門横には、「閻魔王庁の冥官 小野篁(たかむら)御旧跡」と書かれたポスター。

平安貴族の小野篁が仕えたとされる閻魔大王像の、ものすごい迫力。

本堂にも、小野篁御旧跡と書かれた提灯が下がります。

本堂奥の庭には、篁が冥土への入口としたと伝えられる「冥土通いの井戸」が見えました。

横に小さな路地のある「力餅食堂 加藤商店」を過ぎて、坂を登ります。

冥界との境を越えて、次は鳥辺野の雰囲気を今に残す広大な大谷墓地と、その上に聳え立つ清水寺

あっ、駄目だ。

東大路通の向こうは、オーバーツーリズム。

今回は、ここで退散します。

 

元の五条通である松原通は、平安期以来の精神性を色濃く残した、京都の中でも独特で面白い通りでした。

この世とあの世の境を目で見ながら歩く、貴重な街歩きとなりました。

酒蔵と練羊羹の街で看板を巡る・伏見区大手筋商店街界隈

今回は、味わいのある看板を求めて、京都市伏見区の大手筋商店街へ来ました。

大手筋は、かつて豊臣秀吉が築いた伏見城の大手門から続いていた道です。

伏見城からの坂道を西へ下ってくると、京阪電車の踏切越しに見えてくるのは、大手筋商店街のアーケード。

商店街に入る前に、ちょっと周辺を見ておきます。

少し手前にある近鉄京都線の高架下には、こも被りをたくさん並べた伏見らしい居酒屋。

京阪本線と並行する京町通りには、古い和菓子店もあります。

木製看板には、「総本家 駿河屋 練羊羹」。

元をたどれば、1461(寛正2)年に「鶴屋」として創業した、練羊羹の元祖のお店です。

その後、紀州徳川家に随伴して本店が和歌山に移動したり、一時中断したこともあったようですが、単純に計算すると560年を越える老舗ということになります。

暖簾には、鶴屋時代からの鶴に壽の家紋。

ショウウィンドウにある、「太閤秀吉への献上羊羹」。

秀吉の大茶会での引き出物に使われた、「紅羊羹」を再現したもののようです。

当時、諸大名から絶賛された羊羹ですが、まだ寒天ではなく葛や小麦粉を用いた、室町期以来の蒸羊羹。

こちらが、5代目岡本善右衛門が考案し、江戸初期に完成した、寒天を用いた練羊羹。

大手筋の少し北にある伏見中学校の前には、「寒天發祥之地 伏見區御駕籠町」の碑があります。

江戸期になって伏見で練羊羹が作られ始めたことと、寒天生産が進められたことは、深い関係がありそうですね。

総本家駿河屋のお向かいには、1764(明和元)年創業の老舗京料理店「魚三楼」。

鳥羽伏見の戦いでは、店の前で新選組などの旧幕府軍と、目と鼻の先の御香宮に陣をしいた薩摩軍とが激突しています。

店の前には、今も当時の弾痕が残ります。

 

大手筋商店街のアーケードに入ります。

左手に、ほうじ茶の香りが漂う「松田桃香園」。

こちらも1630(寛永7)年創業と、歴史があるようです。

歩いていると見落としそうになる高い場所に、古そうな袖看板もあります。

「茶」の下は何と読むのだろう。

素人には、「無茶苦茶 可食不可飲」と読めてしまうのが、おかしいですね。

アーケードには、「日本酒のまち京都伏見」の垂れ幕も下がります。

こちらは、伏見のすべての蔵元のお酒を試飲できる酒店・「油長」。

店内には、日本酒バーがあります。

アーケードの西端。

一本南の油掛通にも、古そうな和菓子屋さん。

木製看板には、「練羊羹 駿河屋本店」とあります。

やはり、伏見発祥の寒天を用いた、練羊羹を販売しているようです。

最初に見た「総本家駿河屋」とは、どういう関係なのでしょう。

縦型の木製看板には、「五色 練羊羹所」の文字。

看板上部には、「大日本伏見京橋駿河屋製」とあり、「〇に寿」のまわりに鶴らしき鳥の絵の旗がたくさん描かれています。

ショウウィンドウの練羊羹。

店内には、1895(明治28)年に京都岡崎で開かれた、第4回内国勧業博覧会での褒賞證が掛かります。

店のお母さんに話を伺うと、こちらは1781(天明元)年に総本家から分かれた分家とのこと。

数ある駿河屋の中でも、ずっと続いている店としては、うちが一番古いと教えてくれました。

ちなみに、堺にあった分家は、あの与謝野晶子の実家だったらしい。

お店の脇には、「我国に於ける電気鉄道事業発祥の地」の石碑。

第4回内国勧業博覧会が開催されたのと同じ年に、京都駅近くから伏見港畔のこの地を結ぶ、日本初の電気鉄道が開通したようです。

 

今度は、商店街のアーケード西端から納屋町通を少し北へ。

また、古い袖看板に出会います。

「諸毒下し 大もんぢや 大毒丸」。

大文字屋の毒下しを取り扱っていた、生薬屋さんの看板のようです。

こちらは裏面。

左端に、「本家 酒多」の文字が見えます。

このお店は、今も「サカタ薬局」として続いています。

ご主人の話では、袖看板は先々代の祖父の時代からあり、明治のものですとのことでした。

大手筋の北側に並行する通りには、雰囲気のある藤岡酒造の入口。

杉玉と木製看板の間には、きれいな丸いステンドグラスが配されています。

もともと「万長」というお酒を造っていた蔵でしたが、休止していたのを、今の5代目が、「蒼空」という純米酒ブランドで復活させられたようです。

大手筋と交差する新町通には、古い煉瓦塀の日本基督教団伏見教会。

いかにも手彫りという看板に、彫った人の熱意が感じられます。

両替町2丁目にある、かるたの「大石天狗堂本店」。

1800(寛政12)年創業の老舗です。

上油掛町にある、「伏見神聖酒蔵 鳥せい本店」。

酒蔵を利用した店内で、京都では珍しい、さまざまな部位の焼鳥や鶏料理が楽しめるお店。

こちらは、南浜町にある「月桂冠大倉記念館」。

1909(明治42)年に建てられた酒蔵を改装した、酒造りの博物館です。

最後は、大手筋商店街から見ると西南にあたる、静かな三栖向納所線沿いの一角。

道路から少し下がったところに、旧家があります。

石段を7段ほど下がったところが玄関。

切手・はがきを取り扱う看板は出ていますが、営業中の気配は感じられません。

そこにぽつんと残された、一枚の木製看板。

何の看板だろう。

全体に白っぽくなっていますが、表彰状のように周囲が二匹の龍で飾られています。

中央部には、「農商務省許可 商標(〇に天) 大日本最上薄口 醤油」。

右側に、「播州龍𡌛 醸造元 延賀喜三兵衛」。

左側には、「特約店 中西商店」。

ああ、この旧家は、かつて丸天醬油を扱う中西商店だったのですね。

 

酒処として知られる伏見の町ですが、歩いてみると練羊羹発祥の地でもありました。

また、あちらこちらに、さまざまな表情をした看板も残ります。

今は京都市の一部ですが、元は独立した別の都市。

洛中とは、また一味違った風情を感じる街歩きとなりました。

 

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